広島市の市街地(旧市内)は、毛利氏の城下町となって発展してきました。そして城下に町屋ができ、関ヶ原の戦いにより毛利氏が長門周防に減封され、福島氏が入ってから城下が整備され大きく発展しました。福島氏もその後転封され、浅野氏が入封して明治を迎えます。
広島城下の傾城町(遊郭)は、材木町にありましたが、浅野氏が寛永2年(1625)に城下町から宮島の東町はずれの新町へ移したとされています。宮島の遊郭は終戦まであったようですが、現在その名残は残っていません。
宮島は、姫神様なので、女性と子供は行ってはいけないと言われていましたが、これは遊郭があったために口実として利用されたものです。
明治25年になると、広島市の舟入町に西遊郭ができ、日清戦争後の好況で 西遊郭に擬して東遊郭が平塚・ 薬研堀に跨がって設立された。昭和8年には東遊郭の地が弥生町となっている。
「広島案内記」(明治34年12月23日発行には遊郭の項に次のように書いてあります。
「二つあり、西遊郭、東遊郭という。西遊郭は小網町、舟入村に跨り上、中、下等筋及二号地に区別せられ、総面積一万一五九〇坪、貸座敷数七十戸、娼妓数三百九十七人ありとか。もと花街は左官町、畳屋町に分かれておりしを明治二十五年、今の地を区画して移転を命ぜられ、ここに初めて遊郭なるもの起こり、舟入遊郭と称せらる。東遊郭は下柳町、薬研堀、平塚町の三ケ町にまたがり、二十八年戦地より帰還の兵士、人夫、御用商人、軍属の入込むもの多きにより、西遊郭に擬して起こり、以って今日に及べるものにて、土地の広さ五千三十七坪、貸座敷数四十三戸、娼妓数数百数十人なりとぞ。」
現在は、西遊郭は僅かに昔の建物とホテル街を残すのみで、東遊郭が流川町から弥生町・薬研堀が歓楽街となっています。
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