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安芸国(あきのくに)の由来

太古、神武天皇がこの国に入りませし時、食料がアキアキするほどあったから「飽きの国」と名づけられ、安芸ノ国になったともいわれるが、すでに国の首長の安芸津彦命が神武天皇を迎えに出たということからすでに安芸国であったと思われる。
安芸津彦命(あきつひこのみこと)は天湯津彦命(あめのゆづひこのみこと)で、天五百箇彦という意味で、珠玉を連串した意味から曲玉・管玉に関係の神といわれる。天湯津彦の五世の孫が、飽速玉命(安芸国造)で、速谷神社の祭神となっている。
その後、大化の改新により現在の府中町(国府の中という意。なお、備後の国府は府中市である)に国府が置かれ安芸津彦の子孫田所氏が首長となった。(それまでは、五日市の三宅(もとは屯倉(ミヤケ)と書き、穀物と貯蔵した倉があったことによる)が本拠地であった。また、田所氏は地名や職により、佐伯氏・三宅氏・石井氏・三善氏などと称した。


広島(ひろしま)

天正17年(1589年)2月に毛利輝元公は太田川河口にいくつもあるデルタ地(五箇庄)を検分し 、箱島(白島)の南にある最も広い島に築城を決め、4月15日に「鍬初(くわはじめ)」を行いました。
1.その際に毛利氏の祖 大江広元の「広」と、この辺りの地勢に詳しく検分の案内役をつとめた家臣の福島元長の「島」を合わせて「広島」と命名したと云う由来が一般的です。
2.この他に築城を決定した島が以前から最も「広い島」だから「広島」としたという説
3.もう一つにこの島を現地の人々は「広島」と呼んでいたという説があります。

福島大和守信房は、太田川河口の元締めであった毛利水軍−川内衆の長で、「島づくり案内役」として活躍した。
(福島氏は武田時代不在のとき武田氏の代り(守護代)でもあった。武田氏没落後は毛利家に仕え、その後、子の大和守道行は、毛利家とともに山口へ。広島に残った真信は、福島正則と同姓を遠慮して母方の世良を名乗る。)
五箇荘とは、鍛冶塚の荘・平塚の荘・在間の庄・広瀬の庄・箱島(白島)の庄の5つの地域です。

大江広元とは


51代平城天皇の第三皇子阿房親玉が、土師姓を賜りのち大枝・大江と改めた。これから12代目の大江広元は、鎌倉幕府の顧問役で軍師として有名。広元の3子のうちの李光が、鎌倉幕府評定衆となり、毛利の庄に広元とともに住んだ。そのため、毛利家は大江姓を強調していた。李光の五代目親茂が、足利尊氏に従い吉田荘麻原郷地頭職となる。六代目元春は、高師泰に従い石州江ノ川の先陣で南朝方の佐波善四郎を討ち、吉田郡山三千貫の地を与えられ毛利家の礎となった。13代目が毛利元就である。



広島城の別名「鯉城」

広島城の別名については、在間城(芸陽記)・石黒城(知新集)などがありますが、なかでも「鯉城」は鯉城通りなど広島の人々に親しまれた呼び方です。また、「御篠城」とも呼ばれます。御篠(みささ)とは、太田川の別名で、川が笹のように枝分かれしているところからきています。(昔は、横川付近一帯は三篠町で、現在でもJR芸備線沿いの川は太田川に合流するまでが三篠川です。)
在間城とは、もともとこの地が地家(平塚)・鍛冶塚(観志塚)・別府(在間)の三庄にまたがったため、”間にある城”の意で、在間城と呼ばれました。
毛利家は、もともと吉田郡山三千貫の地から、戦国時代をへて安芸・備後・備中・周防・長門・石見・出雲・伯耆・など125万石の大大名となりました。あたかも、鯉が瀧を登って龍となるように。(中国の黄河の上流にある龍門の急流を登り切ると、鯉は龍になるといわれ、ここから登竜門と名づけられたそうです。)
そして、広島城が築かれるまで広島湾は「鯉ノ浦」と呼ばれていました。そこから広島城は「鯉城」と呼ばれるようになりました。

鯉ノ浦はいつから?

広島の西区にある己斐は、植木で有名な町です。
太古の昔、神功皇后西征のとき、旭山神社の下にある”御船着”に到着し、山上で休憩したとき県主が村の名物である”大黒鯉”を献上した。長旅の皇后は感激して、「オオ鯉々々」と声をあげられた。ここから、この地を”鯉の里”と呼ぶようになりました。それから長い歳月により河口がデルタ地帯となるまで”鯉ノ浦”と呼ばれました。(東の佐東の浦に対し佐西の浦ともいわれた)
和銅6年(713)養老律令により全国の地名を二字名に統一されたさい、「鯉」が万葉の当字「己斐」となったものです。



その他参考:がんす横丁-p125-
新修広島城下町p19-