トップ >> 広島市町名一覧表 >>旧町名(2005/2/12-2005/7/10作成)

油屋町(あぶらやちょう)

江戸期から昭和40年の町名。町名の由来は、「知新集」に「むかしより油商人多く住ける故」とされる。 また、天正17年広島町割の時周防国から来往し、家名を油屋と号した野上屋にちなむとも記す。 野上屋は毛利氏の油御用聞となって以来、藩の油御用を勤めた豪商で、元禄6年には広島町のはずれ の己斐村に水車を動力とした製油所を建設(知新集)。寛政10年藩は油御用所を設け、野上屋ほか近村の 主要な搾油業者を役人とした(新修広島市史)。鉄屋は鉄剣を商い藩の鉄方御用聞を勤めた(知新集)。 明治11年広島区、明治22年に広島市の町名となる。明治15年に一部が左官町となる。 明治末期鍋屋山崎儀助が運送業を始めた。高田・三次方面との間には1日100台もの馬車が往来したという (続々がんす横丁)。昭和40年に猫屋町・十日市町1−2丁目・本川町1−3丁目となる。

石見屋町(いわみやちょう)

江戸期から昭和40年の町名。江戸期は広島城下新町組に属す。岩見屋町とも書いた。町名の由来は、 石見屋という屋号によると思われる(知新集)。毛利氏時代は武家屋敷地であったが、浅野氏入国の頃には 町屋町となる。刀剣の研師六之丞家はもと研屋町に住んだが、のちに当町へ移転した(知新集)。 真宗正光寺は広島開府時に高田郡吉田から移転。山伏修験場福寿院もあった。明治6年に第3小区の小学校 が正光寺に設置される。明治11年に広島区、明治22年に広島市の町名となる。昭和40年に幟町となる。

尾道町(おのみちちょう)

江戸期から昭和40年の町名。江戸期は広島城下白神組に属す。文禄年間頃尾道浦から大工・石工が来住 し、町名はこれに由来する(知新集)。広島城の南、西塔川に西岸で、広島築城の開始された天正17年岩国 屋の祖先多田与三右衛門が当町に来住し、小屋掛で住んだと伝える。岩国屋は、竹木の類を商い、居町の年寄り 役などを勤めた。 西塔川は築城資材の搬入のため開削された運河で、当町はその船着き場として貨物・旅客が 出入りした(新修広島市史)。西塔川対岸の国泰寺との間には瓦屋根・扉・欄干付きの西塔橋が架けられていた。 その長さは12間余・幅2間半、屋根裏には屋根の上に上がらぬこと、雀の子を獲らぬこと、橋の上に餅を置かぬことを 記した制札が掲げられていた(知新集)。 明治5年一部が小町となる。明治11年広島区、明治22年広島市の町名となる。 大正元年にどぶ川となっていた西塔川を埋め立てて道路とし、広島電気(現広島電鉄)の市内電車 紙屋町〜 御幸橋間が開通した。昭和40年に大手町1−5丁目となる。

鍛冶屋町(かじやちょう)

江戸期から昭和40年の町名。町名の由来は、鍛冶職人が多数住んだことによる(知新集)。江戸期は広島城下 広瀬組に属す。広島城の南西、本川右岸、南は塚本町、北は武家屋敷地の鷹匠町。天正年間に八文字屋 忠兵衛・法道寺屋三郎左衛門が高田郡吉田から、錠屋権右衛門は同郡多治比村から当町に移住し、鍛冶・ 鉄細工を業とした(広島市史)。寛永14年に当町の西に分岐する通りに新鍛冶屋町が成立する(知新集)。 伊予辰之助は天和年間頃来住し、時計師として歴代藩の扶持を受け、芳原屋・美濃屋・中村屋は代々鍛冶を 業とした(知新集)。町の北端には幕末、藩の油所が置かれ、のちに本川小学校が跡地に設立される。 明治11年に広島区、明治22年に広島市の町名となる。明治15年新鍛冶屋町・鷹匠町・広瀬村の一部を編入。 昭和40年本川町1−3丁目となる。

上柳町(かみやなぎまち)

明治15年から昭和40年の町名。もとは広島区柳町・段原村の各一部。町名はもとの柳町によるものか。 明治15年広島区、明治22年から広島市の町名。京橋川の右岸にあたり、南は旧西国街道筋の橋本町 がある。京橋川旧大須賀渡しの地に架かる栄橋は、明治39年に架橋された。明治38年に軍用被服縫製 工場があった。また、明治41年に青果物市場の京橋市場が株式会社とされた。昭和40年に橋本町・幟町・ 上幟町となる。

革屋町(かわやちょう)

江戸期から昭和40年の町名。町名の由来は、かつて革細工職人が多数居住したことによる(知新集)。 江戸期は広島城下中通組に属す。広島城の南、西国街道に沿って、東は水道を挟んで播磨屋町、西は 横町。毛利氏時代に成立したが、その後革細工職人はいなくなる。宝永元年当町の梨地屋・掛持屋に 銀札場が設置される(知新集)。明治11年広島区、明治22年に広島市の町名となる。 大正初期から八丁堀付近が新しい盛り場として成長し、新天地入口から元安橋東詰に至る本通り (平田屋町・播磨屋町・革屋町・東横町・西横町・細工町)が賑わうようになり、新天地開場の明治10年 には鈴蘭灯が設置され、「鈴蘭街」と呼ばれた。昭和40年に紙屋町1−2丁目・本通となる。

桐木町(きりのきまち)

昭和8年から41年の広島市の町名(現在南区)。もとは段原町の一部で、段原町内の字名と町名としたもので、 当地にあった桐の大木にちなむ(知新集)。昭和19年に宇品港へ兵員輸送のため的場町から皆実町煙草 専売局(現在のJT)の間に広島電気市電軌道を敷設。電車通りとして道が拡幅され広島駅から宇品への 幹線道路となった。昭和40年に一部が金屋町となり、残りが昭和41年に松川町・比治山町となる。

木挽町(こびきちょう)

江戸期から昭和40年の町名。江戸期は広島城下中島組に属す。広島城の南、本川と元安川に挟まれた 中島 の中央部に位置する。東は中島新町、西は天神町に隣接。木挽町・中島新町の地は、広島築城当時 木挽小 屋があり、畑地であったことから当初中島地方と呼ばれた。承応3年ころこの地に多くの大工・木挽職の 者が住んでいた。 真言宗福寿院・持明院は文禄年間頃の創建(第2次対戦後福寿院は廃寺、持明院は東区 戸坂町へ移転)。 浄土宗光明寺の地はもと処刑場で、刑死者の冥福を祈るため千日間念仏を唱えたと伝える ことから別名千日寺、 寺前の小路を千日小路と呼んだ(知新集)。現在は廃寺となる。明治11年広島区、 明治22年に広島市の町名となる。明治15年に天神町の一部を編入。昭和25年に北部が平和記念公園・ 平和大通の一部となる。昭和40年からは中島町となる。

細工町(さいくまち)

江戸期から昭和40年の町名。江戸期は広島城下白神組に属す。町名の由来は、小細工職人が多数居住 して いたことによる(知新集)。毛利氏時代城内の毛利元康邸前から当町に通ずる道があって元康通りと称され 元安橋 は古くは元康橋と書いた。北は猿楽町、南は元安橋東詰まで。元安川土手には広島城南西隅の櫓下 から細工町 にかけて藩の船着場があり、材木蔵・木売所・米蔵が置かれた。城下随一の薬店と評された世並屋 は町年寄・ 唐薬種改などを勤め、米屋忠左衛門家は歴代藩の勘定所御用を勤めた。また、米の仲買・質貸 の長門屋権八家、 金銀両替を業とし船年寄役などを勤めた長門屋与三郎家、繰綿商の伊予屋、端物商で唐 物改問屋を勤めた山県屋 など特権商人が住んだ。慶長年間創立とされる浄土宗西蓮寺・真宗西向寺がある。 明治4年に郵便役所が塩屋町に 設立されその後元安橋東詰に移転。明治8年に広島郵便局となる。 明治11年に広島区、明治22年に広島市の町名となる。 明治15年に横町・広瀬村の一部を編入。 明治16年に広島諸商仕入買物案内記には5階建ての料亭 「五階楼」などの旅館料理商などがあり賑わった。 昭和20年8月6日に投下された 原爆は島病院の上空600mで炸裂した。 昭和40年に大手町1〜5丁目となる。

材木町(ざいもくちょう)

江戸期から昭和40年の町名。江戸期は広島城下中島組に属す。町名の由来は昔より材木商が多数居住 したことによる(知新集)。また一説にもと湿地であったため材木を打ち込んで固めたことによるともいう(続がんす 横丁)。町の南に隣接する誓願寺は天正18年の開基でこの地はもと芦原沼で あったため小舟の上から寺地を 検分したと伝える。古くは傾城町であったが、 寛永年間娼家は他所へ移された(知新集)。明治11年広島区、 明治22年広島市の町名となる。 明治15年に天神町・広瀬村の各一部を編入。原爆で壊滅したこの地は 昭和25年平和記念公園が建設された。 昭和40年に中島町となる。

左官町(さかんちょう)

江戸期から昭和40年の町名。江戸期は広島城下。城下町建設に伴い沼田郡広瀬村に成立した。 承応年間に広島城下広瀬組に属す。宝暦7年から新開組に移管。町名の由来は、もと左官が多数住んだ ことによる(知新集)。 塗壁町とも称した。広島城の南西、本川と小屋川(天満川)の間、北は鷹匠町、南は 新鍛冶屋町に接する。 町内には苧麻商の金屋、浅野氏に随従して紀伊国から移住した柿葺の扶持職人 助三郎家、 銅虫細工の扶持職人須藤忠四郎家、福島氏に冶工として仕えのち浅野氏の扶持職人となった 刀鍛冶冬広が住んだ。明治11年に広島区、明治15年に広瀬村、油屋町、新鍛冶屋町の各一部を編入。 明治以降も鍛冶屋町とともに農具をはじめとする鉄製品の製造・卸が盛であった(新修広島市史)。昭和40年 に本川町1ー3丁目、十日市町1〜2丁目となる。

雑魚場町(ざこばまち)

昭和8年から昭和40年の町名。もとは国泰寺町の一部。東は平田屋川(並木通り)に面し、西は国泰寺町 。町名は江戸期にこの地で雑小魚が水揚げされていたことに基づく(知新集)。原爆投下の日、地内の県立 第一中学校で疎開作業に動員された同校ほか12校の生徒2,020人が被爆し、1,591人が死亡した。 昭和40年に小町・国泰寺1〜2丁目となる。

猿楽町(さるがくちょう)

江戸期から昭和40年の町名。町名の由来は、もと能役者・猿楽師が多く居住したからという(知新集)。 広島城の南の外堀に沿った横町で東は紙屋町、西は元安川に面する。 元安川土手には広島城南西隅の 櫓下から細工町にかけて藩の船着場があり、材木蔵・木売所・米蔵が置かれた。 明治7年小学校就徳舎・ 興文舎が設立された。明治11年広島区、明治22年広島市の町名となる。 明治11年元安川対岸の 中島慈仙寺鼻との間に有料の東相生橋が架橋される。本通りとならぶ東西交通 の要所 として商店が集中し賑わった。明治15年に一部が大手町1〜9丁目となる。大正4年に元安川畔 旧藩米蔵跡 広島県物産陳列館(のちに産業奨励館)が 完成する。県内の産業奨励を目的とするとともに各種美術展覧会 場として大きな役割を果たすが、原爆 被災しその残骸が原爆ドームとして保存されている。 昭和40年に紙屋町1〜2丁目、大手町1〜5丁目となる。

塩屋町(しおやちょう)

江戸期から昭和40年の町名。江戸期は広島城下白神組に属す。町名の由来は、塩屋が多数あったことによる (知新集)。 広島城の南、西塔川の西岸に位置する竪町で北に紙屋町、南に尾道町がある。広島城築城 の際に資材運搬のため開削 された西塔川に沿って発達した町。西塔川対岸の西魚屋町との間に戒善寺橋、 その南方の杉の木小路 の間に高厳橋があった。 元文2年西塔川の戒善寺橋以北は中央1間幅の水路を残して 両側6間が埋め立てられた。 町内に天正17年に高田郡吉田から移転した真宗専勝寺がある。 明治11年に広島区、明治22年に広島市の町名となる。 大正元年に西塔川を埋め立てて道路とし、広島電気 の市内電車(紙屋町〜御幸橋)が開通。昭和40年に紙屋町1〜2丁目、 大手町1〜5丁目となる。

下柳町(しもやなぎちょう)・柳町

明治15年から昭和40年の町名。はじめ広島区、明治22年から広島市の町名。もとは広島市柳町・竹屋村 の各一部。 対岸土手町との間には明治11年に架橋された柳橋があり、段原方面からの市中心への経路として 賑わった。 京橋川の西岸で西は石見屋町、山口町に接する。明治14年に明神座が大須賀村から移転し、 その後拡張されて寿座と並ぶ歌舞伎定小屋となった。日清戦争後の好況で 西遊郭に擬して東遊郭が平塚・ 薬研堀に跨がって設立された。当時の 東遊郭内に寄席の柳座、柳橋西詰には浪花節専門の旭座も設立され 、 歓楽街を形成した。昭和8年に東遊郭の地が弥生町となる。昭和40年に橋本町・銀山町となる。
柳町(やなぎちょう)
江戸期から明治15年の町名。江戸期は武家屋敷地で京橋川の右岸に位置する。町名の由来は、昔路傍に 柳の木があったことによる(旧県史)。中ほどを西国街道が通る橋本町が横切り、上柳町と下柳町に分かれ、 明治11年に広島区の町名となり、明治15年に上柳町と下柳町に分離する。

新市町(しんいちまち)

昭和8年から40年の町名で、元は広島市広瀬町の一部、本川と天満川に挟まれた中州の北部に位置する。 明治21年に開設された青物市場があった。町名は、江戸末期の天満川沿いの青物市場(旧市) に対して新 市であることによる。昭和40年に西十日市町・榎町となる。

新川場町(しんせんばちょう)

江戸期から昭和40年の町名で新船場町とも書いた。町名の由来は広島城築城の時に資材を搬入するため 平田屋川が開削され当地に船着場が設けられたことによる(知新集)。「旧図には場ははたに作る、川端の意なり」 と「芸藩通志」にある。寛永年間は蔵屋敷、家中屋敷であったが、その後町屋となり、宝暦8年の大火で米蔵 が焼け、竹田町に米蔵が新設された。明治11年に広島区の町名、明治22年に広島市の町名となる。 昭和40年に国泰寺町1-2丁目、小町、袋町、中町となる。平田屋川は大正4年に中央2〜4間を残して埋め立てられ、昭和31年には残りの溝も埋め立てられて並木の 美しい街路(現在の並木通り)となった。

空鞘町(そらざやちょう)

何故か角川地名大辞典に記載がない。現在の空鞘稲荷神社(そらざやいなおじんじゃ)の付近で、町名の由来 も この神社に因むと思われる。神社の名前の由来については、神社の項目を参照。 昭和40年十日市町となる。

台屋町(だいやちょう)※1

江戸期から昭和40年の町名で、もとは地方町。町名の由来は、町内の浄土宗源光院を開山の名により台屋寺と 呼ばれたが、寛延4年にこの寺号を町名とし、はじめは「だいおく」と呼ばれた(知新集)。 明治11年広島区、明治22年広島市の町名となる。明治15年に比治村から分離、新愛宕町と段原村の一部を 編入。昭和40年に京橋町・的場町1〜2丁目となる。

鷹匠町(たかじょうまち)

江戸期から昭和40年までの町名でもとは武家屋敷地。町名は鷹匠の居住に因む(旧県史)。北に空鞘町があり、 延宝年間まで藩主鷹狩のための船場があった(知新集)。空鞘町には鷹の餌にする雀を獲る餌差が住んでいた (続々がんす横丁)。明治11年に広島区、明治22年に広島市の町名となる。明治15年に広瀬村の一部を編入 、一部が空鞘町・鍛冶屋町となる。昭和40年に本川町1〜3丁目・十日市町1〜2丁目となる。

斜屋町(ちぎやちょう)※2

江戸期から昭和40年の町名。広島城南東の西国街道に沿った町で、東に銀山町、西に堀川町が続く。 町名は、屋号によるものと思われる。毛利時代は武家屋敷地であったが、浅野氏入国の頃に町屋町となった。 大工・桶屋などの職人町であった。明治11年に広島区、明治22年に広島市の町名となる。明治33年頃には 神社仏閣用具店が3軒、仏壇店、神官装束店が1軒あったが、その後仏壇店が次第に集中して「仏壇通り」の俗称 が生まれた。明治末期には南の薬研堀に東遊郭、昭和期には東新天地が出来て仏壇通りも料理飲食店が増え、 現在は流れ川にならぶ飲み屋街となっている。

塚本町(つかもとちょう)

江戸期から昭和40年の町名で、広島城の南西、広瀬組。町名の由来は、昔一里塚があったことによるものか(旧県史)。本川橋の西詰から堺町へ至る西国街道沿いの町。もと広瀬村で城下町建設により成立。毛利氏時代から町人町。 明治11年に広島区、明治22年に広島市の町名となる。明治頃には各種の問屋・舟問屋・旅館が集中して賑わった。 大正13年に堺町から塚本町にかけて鈴蘭灯が設置された。昭和40年に堺町1−2丁目、本川町1−3丁目、土橋町、 猫屋町となる。

鉄砲屋町(てっぽうやちょう)

江戸期から昭和40年の町名で、町名の由来は、もと鉄砲鍛冶が多く住んだことによる(知新集)。平田屋川の西岸に位置する。職人町で、鉄砲の金具師榎並屋清兵衛は浅野氏に従って来住。また、延亨2年まで藩お抱え相撲取りが住んだ(知新集)。明治11年に広島区、明治22年広島市の町名となる。昭和40年に袋町・本通となる。

天神町(てんじんまち)

江戸期から昭和40年の町名で、町名は広島開発の時に毛利氏が高田郡吉田から勧請した満松院の境内社天神社に由来 し、寛永から承応年間頃改称した(知新集)。「芸藩通志」に「旧名舟町、天神社勧請の後改名す」とある。 明治11年広島区、明治22年広島市の町名となる。明治15年一部が木挽町・材木町となる。昭和40年に中島町となる。

土手町(どてちょう)

明治15年から昭和41年の町名。京橋川左岸の柳橋東詰から比治山下に至る川土手の町。昭和40年に稲荷町、松川町 、昭和41年に比治山町となる。

研屋町(とぎやちょう)

江戸期から昭和40年の町名。毛利氏広島開府の頃当時干潟であった播磨屋町・研屋町・紙屋町・立町一帯を紀伊國から 来た湯川播磨守宗有が開拓。真鍋御門の外に家臣とともに住み、のち刀剣の研を業とするようになったと伝えられ、町名は是に 由来する(知新集)。明治11年広島区、明治22年広島市の町名となる。昭和40年立町・紙屋町1−2丁目・本通となる。

鳥屋町(とりやちょう)

江戸期から昭和40年の町名。もとは豆腐屋町で承応〜天和年間に改称。元安川東岸に位置する。町名の由来は、成立 当時に町年寄を勤めた鳥屋八右衛門にちなむ(知新集)。明治11年に広島区、明治22年に広島市の町名となる。昭和 40年大手町1〜5丁目となる。

西魚屋町(にしうおやちょう)

江戸期から昭和40年の町名。広島城の南、西塔川の東岸で古くは東魚町。町名の由来は、もと魚屋が多数住んだことによる。福島氏時代に高田郡吉田から浄土宗戒善寺が移り、戒善寺町とも呼ばれた。明暦大火ののちに中町下に移転した(知新集)。西塔川に面した通りは、石工が多く住んだことから石切屋町と呼ばれた(知新集)。

錦町(にしきまち)

昭和8年から40年の広島市の町名。もとは広瀬町の一部。本川と天満川に挟まれた中州の北部に位置する。 昔は毛利氏の菩提寺洞春寺(現在の広瀬神社の場所にあった)の境内地の蓮池であったという(知新集)。 昭和40年西十日市・広瀬町となる。

西九軒町(にしくけんちょう)

明治15年から昭和40年の町名。地名ほ由来は江戸期農家が9軒あったことから九軒町と呼ばれたが、東の白島九軒町 に対して西を冠した(知新集・広島市史)。東は西引御堂町・十日市町、西は広瀬町に接する。昭和40年に十日市町1〜2丁目、広瀬町、西十日市町・榎町となる。

西新町(にししんまち)

明治15年から昭和40年の町名。堺町の南に位置し、東は西地方町、西は小網町に隣接し、町名は東方の中島新町 に対するもの(広島市史)。西地方町から小網町へかけて大正11年開場の演舞場や検番、料理飲食店が集中し賑わった (続々がんす横丁)。昭和40年に堺町1〜2丁目・土橋町・河原町・小網町となる。

西大工町(にしだいくまち)

江戸期から昭和40年の町名で、堺町3丁目から北の榎町に至る南北の町筋で、町名の由来は大工職人が居住したことに よる(知新集)。町内には御作事所大工棟梁役などを勤めた木屋勘蔵家が住んだ(知新集)。昭和40年に堺町1−2丁目、榎町となる。

西地方町(にしじかたちょう)

江戸期から昭和40年の町名で、地方とは町方に対する耕地のことで、東にある台屋町、または中島地方に対して西に位置することから西地方町と呼ばれたのか。「此所舟入村に隣れる故沖手に対しての名ならんか」と知新集にある。 また、町割り時に畳屋が多く住んだことから畳屋町とも称した(知新集)。地内の曹洞宗養徳院は普門寺末寺。浄土宗 浄国寺は京都知恩院末寺で、福島氏時代に高田郡吉田より移転した。寺内には、天明・寛政年間に宮島杓子を創案した 僧誓真、浅野氏入国に随従した銅虫細工師佐々木伝兵衛の墓がある(続々がんす横丁)。 文化元年に本川対岸との間に本川渡しが開始された。明治6年に本川渡しの地に新大橋が架橋されたが、戦後流失した 新大橋の北側に西平和大橋が架橋された。明治期頃までは西本川と呼ばれ西土手町の本川沿いは本川水運で繁盛した。 明治末期には東検番が設けられ、小網町まで歓楽街を形成した。昭和40年に土橋町・河原町となる。

西引御堂町(にしひきみどうちょう)

江戸期から昭和40年の町名で、町名の由来は胡社に由来する(知新集)。市中山西光寺胡堂由来に「西光寺先年ハ 高田郡の内吉田より沼田郡の内古市へ引ケ、古市より広瀬組の内西引御堂町へ引、是より胡町東引御堂町へ引申候」 とある(知新集)。西光寺の境内社胡社を市場神として十日市町北隣の当町へ移転し、さらに慶長8年胡町・東引御堂町 を市の町として町割りした時に再度移された。(旧県史では、「長安寺を吉田より引き、後に之を市の町に移す、二ヶ所共に引御堂町と名称す」とある。明治11年に広島区、明治22年に広島市の町名となる。明治15年に広瀬村の一部を編入し、昭和40年十日市1〜2丁目・広瀬町となる。

播磨屋町(はりまやちょう)

江戸期から昭和40年の町名。町名の由来は、毛利氏開府の頃に、紀伊国から来た湯川播磨守宗有が当時干潟であった 当町および研屋町・紙屋町・立町あたりを開拓したことによる(知新集)。広島城の南に位置し、西国街道に沿って東は平田屋町、西は革屋町が続く。毛利時代は侍地で福島氏以降町屋となる。明治26年に袋町の温知尋常小学校が移転し、 播磨屋町尋常小学校と改称する。明治43年に再び袋町へ移転。学校跡の空き地ではサーカス団の興行・土佐犬の闘犬 などが行われた(続がんす横丁)。大正期には東の千日前・新天地が新しい盛り場となり、新天地入り口から元安橋東詰 までの本通りが賑わい、大正10年には鈴蘭灯が常置された。昭和40年に本通・立町・紙屋町1〜2丁目となる。

東魚屋町(ひがしうおやちょう))

江戸期から昭和40年の町名。町名の由来は、魚商が多数住んだことによる(知新集)。古くは東魚町・中の棚とも称す。中の棚は、西魚屋町・京橋町の魚市場の中間に位置することによる(旧県史)。毛利氏時代は武家屋敷町で福島氏時代に町屋となる。魚問屋天満屋七右衛門は浅野氏入国に随従し、代々御肴御用を勤めた(知新集)。地内には宝暦8年以降の勧請といわれる中の棚稲荷がある。江戸期以降の伝統を引き継いだ中の棚魚市場は大手町7丁目の東洋水産市場と合併し、昭和3年大手町9丁目に広島水産の市場が設立された。大正4年に平田屋川が埋め立てられ、八丁堀電停前から新天地 入り口までの間は商店街となり昭和初期から金座街と呼ばれた。魚問屋は次第に姿を消した。昭和40年立町・本通 となる。

平田屋町(ひらたやちょう)

江戸期から昭和40年の町名。毛利氏広島開府の時、出雲国平田の平田屋惣右衛門が招かれて城普請・町割に協力 、その功により当地に家地30間を給され町人頭となった(知新集)。町名はこれに由来する。平田屋惣右衛門は毛利氏 移封後出雲へ帰ったが、福島氏の招きで再び来住、大年寄役を勤めた。平田屋町から元安橋東詰に至る旧西国街道筋は本通りと呼ばれ「最も繁賑の地にして終日行人織るが如し」と評された(明治33年広島繁昌記)。大正期当地・播磨屋町・革屋町の3町は三栄会という商店会を結成、昭和初期には本通り西部の商店会と合併して本通り会を結成。大正10年には新天地が開業し本通りの道路が舗装され、鈴蘭灯が常置された。昭和40年本通・立町となる。

元柳町(もとやなぎまち)

江戸期から昭和40年の町名。本川に架かる猫屋橋東詰から南に延びる土手筋と東の材木町の筋に沿い、町名は川 土手に柳の大木があったことによる(知新集)。のち東柳町が開けたため元を冠称した。明治11年に広島区、明治22年に広島市の町名となり、明治15年広瀬村の一部を編入。原爆で壊滅し、平和記念公園が建設され、昭和40年に中島町となる。

山口町(やまぐちちょう)

江戸期から昭和40年の町名。町名の由来は、移住者の郷里に由来すると思われる(新修広島市史)。西国街道沿い の竪町で北は石見屋町、南は銀山町に隣接する。明治11年に広島区、明治22年に広島市の町名。明治15年に銀山町の一部を編入。昭和40年銀山町・胡町・幟町となる。

横堀町(よこほりまち)

昭和8年から昭和40年の町名。町名は天満橋の東詰から北方の青物市場のあった堤防上を横堀町と呼んだことに よる(がんす夜話)。西は北榎町、東は新市町に隣接する。昭和40年西十日市町・榎町となる。

横町(よこまち)

江戸期から昭和40年の町名。広島城下の町割は南北の通りを竪町、東西の通りを横町と呼んでほぼ碁盤目状に町割 がなされており、町名は東西の基線となった本通りの一角を占めることによる。 東は西塔川北端、西は元安橋東詰の細工町毛利氏以来の町人町で白神通りを境に東横町・西横町に分かれる。 町内西寄りに釘屋小路があり、元文年間に釘屋久松という者が住んだことにちなむ(知新集)。明治11年に広島区、 明治22年に広島市の町名となる。明治15年に一部が細工町になる。明治22年に広島商工倶楽部が横町裏手に 開設。明治41年に東横町に横町勧商場が開設、演技館も開場され中島本町・堀川町などどならぶ盛り場となる。 昭和22年旧横町勧商場の焼け跡に広極商店街(現在のサンモール)が建設される。昭和40年に大手町1〜5丁目 となる。

※1は台の旧字体、※2は金へんに斗の漢字です。

現在の場所は、広島市のホームページ(対照表)で確認してください。