TOPへ >> 寺社仏閣 >> 旭山神社(あさひやまじんじゃ) 西区  

 
旭山神社
創建のいわれは、この地に神功皇后が立ち寄られたことに起縁しているといわれる。又その折、県主(あがたぬし)から大きな鯉を献上され大変喜ばれたので、それが「己斐」の地名の起りとなったといわれる。
祭神としては、神功皇后・応神天皇・宗像三女神の五柱が祭られている。
厳島の戦い(1555)に際して、毛利元就がこの山上で昇る朝日と拝んで以来、「旭山」と呼ばれるようになったと伝えられている。又、毛利輝元が広島城築城にあたり下見のため登った山といわれる。
鳥居の額の書は、土井百穀が有栖川宮熾仁親王から頂いたものである。

旭山神社
旭山上にある旭山神社・ここから市内が一望できる。(2002/3/16)

旭山神社2
途中にある稲荷さん

土井百穀の碑
上り口にある土井百穀の碑

鳥居
上り口の鳥居・有栖川宮熾仁親王の額がある(2002/3/16)
有栖川宮熾仁親王とは?
皇族の一人。陸軍大将、参謀総長として、大勲位菊花章頸飾を受賞 (明治28年1月16日)
有栖川宮熾仁親王殿下の国葬は、明治28年1月29日に行われた。
なお、宮島の大鳥居の額も有栖川宮熾仁親王の筆だそうです。

階段が急ですが、近所のこどもが遊んでたりします。

己斐が植木で有名になったのは?

関ヶ原役後、毛利氏が山口に左遷されて福島氏が入り、福島氏ののち浅野氏が入府したとき、大阪、池田市より同行した
植木屋次郎左衛門が、この地を植木、盆栽の適地とさだめて開発して以来、培われてきた伝統が実を結び、武家争奪の要地は一変し、”花と植木の町”となった。
これは、浅野長晟が徳川秀忠の妹、振姫を妻としていたがこの振姫は兄秀忠と同じく盆栽の趣味があり、特に牡丹を愛したという。そこで長晟公は、紀州より国替にさいし今の大阪市池田市から、下村次郎左衛門という植木屋を連れてきた。そして、己斐が適地であるとして、ここで植木を作り始めたのがはじまりです。

 


その他参考:がんす夜話p54-61
新修広島城下町p227