愛宕町(あたごまち)
明治15年から現在の地名。もとの東愛宕、西愛宕町です。昔は西松原に対し東松原といった。南は矢賀村に属し北は大須賀村に属した。承応(1652-1654)の図に”松原新屋敷"といい人家がある。天和の図には東、西松原といい、別名松原新町ともいった。正徳元年(1711)火災をおそれて火神−愛宕神を勧請してから、町名を「愛宕町」とした。曙(あけぼの)
もとは、広島市尾長町・東蟹屋町の各一部で、昭和17年から現在の町名。昭和40年に尾長町・愛宕町の一部を編入して、一部が東蟹屋町へ、昭和47年に一部が東駅町となる。牛田(うした)
牛田(うした) |
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地名の由来は、「芸藩通志」では、古くは公郷大人の領地で大人田(うした)の意、あるいは斥鹵(せきろ)を開拓したことから潮田と呼んだことにちなむという。また牛牧などの地かともいう。(県史) 古代奈良時代には、牛田荘とされ、安芸国安芸郡のうちで、西大寺領。 中世鎌倉期には、牛田村の地名が見え、在庁官人の田所氏の所領地があったが、室町期は守護職武田氏の支配地から、大内氏の安芸進出により武田方であった仁保島の白井氏が大内方に付き大内氏から宛われた。天文10年に武田氏が滅んで、毛利氏が大内氏から預かった。太田川河口に位置していることから毛利軍の水軍の拠点とされた。 江戸期には、安芸国安芸郡(もと安南郡)で広島藩領蔵入地。寛文4年に京橋川に神田橋が架けられたが、これは城下の太田川ではに架かるものとしては、西国・出雲街道以外では唯一である。神田八幡宮は銀山城主武田氏の氏神を勧進したもの。早稲田八幡宮は永正8年の勧請とされる。この両社が牛田村の氏神となる。 明治22年に自治体として牛田村となり、昭和4年に広島市となる。明治22年に対岸の工兵隊と作業所を結ぶために県内唯一の釣橋として工兵橋が架けられた。 |
牛田旭(うしたあさひ)[1〜2丁目]
もと牛田町の一部で昭和45年から現在の町名。昭和55年からは広島市東区の町名となる。牛田山(うしたやま)
もと牛田町の一部で昭和45年から現在の町名。昭和55年からは広島市東区の町名となる。牛田中(うしたなか)[1〜2丁目}
もと牛田町の一部で昭和45年から現在の町名。昭和55年からは広島市東区の町名となる。牛田東(うしたひがし)
もと牛田町の一部で昭和45年から現在の町名。昭和55年からは広島市東区の町名となる。牛田新町(うしたしんまち)[1〜2丁目]
もと牛田町の一部で昭和45年から現在の町名。昭和55年からは広島市東区の町名となる。牛田早稲田(うしたわせだ)
もと牛田町の一部で昭和45年から現在の町名。昭和55年からは広島市東区の町名となる。はじめは1〜2丁目であったが、昭和51年に1〜4丁目となり、一部が牛田東となる。地名は早稲田八幡宮によるものか。馬木(うまき)
馬木(うまき) |
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地名の由来は、「按に馬木は本馬牧なるべし、古国府に近ければ此村を牧地とせられしか」と「芸藩通志」にある。 戦国期は、馬木村で安芸国佐東郡のうち。名応頃守護武田氏から熊谷膳直へ宛行われ、天文2年に毛利氏の知行地となる。 江戸期は、安芸国高宮郡(もと安北郡)で広島藩領。広島築城の際に吉田と広島を結ぶ路の建設が急がれ、普請奉行二宮就辰は深川から温品道を整備し、馬木村に居を構えた。温品川・小河原川の分水界付近の「二宮屋敷」がその屋敷跡で、園地・馬場跡と呼ぶ所もある。(芸藩通志) 江戸期から明治22年までの村名。明治22年に福木村の大字となる。昭和41年から安芸町、昭和49年に広島市、昭和55年から広島市東区となる。 |
馬木(うまき)
昭和58年から現在の町名。1〜6丁目、8・9丁目がある。もとは安芸町馬木の一部。馬木町
昭和58年から現在の町名。もとは安芸町馬木の一部。尾長(おなが)
尾長(おなが) |
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尾長山と二葉山塊の南麓に位置。地名の由来は、「むかし此所海辺にて地かたハ山の尾にそひて長々しきゆゑ」と知新集にある。また、尾長山の名は沖を通る船が難破した時、ここに棲む大蛇の尾によって救われたとの寓話にちなむという。(広島市コミュニティカルテ) 戦国期から見える地名で、安芸国佐東郡のうち。大内氏から白井越中守宛行われていたがその後毛利領となった。尾長村は江戸期からの村名で、安芸国安芸郡(もと安南郡)で広島藩領、広島城下新開組に属す。福島正則の頃矢賀村から分離して成立する(知新集)。江戸初期に西国街道が広島城下につけかえられ、福島正則は矢賀村境の岩鼻(現在の東山町)に大門を設置してこの地が城下東の入口となった。城下から中山へ越す大内峠は大内義隆が府中出張山に拠った武田氏麾下白井備中を攻略した経路であることにちなむ。片河町より矢賀村に越す山路の傍らには福島正則の家臣でその勇猛を謳われた可児才蔵の墓があり、この墓に祈ると歯痛が治まるという言い伝えがある。「数丈の磐石重畳して一奇観を為す」とされる景勝岩鼻には藤棚があり、甚六茶屋と呼ぶ茶店が開かれた(明治33年広島繁盛記)。明治15年に矢賀村(矢賀新開)・古川村・矢賀村の各一部を編入し、大須賀村と境界変更。明治22年に広島市の大字となる。明治23年に民有田圃を上地し約20万坪の東練兵場、騎兵第5連隊営所、射的場が設置された。矢賀村境に工兵作業所が設けられた。明治42年青物市場の迦羅迦羅市場が開設された。大正5年に広島市の町名となる。 |
尾長町(おながまち)
大正5年から現在の町名。一部が、昭和8年に二葉の里へ、同17年に曙、同39年に山根町・光が丘・光町へ、同40年に愛宕町・若草町・曙町へ、同47年に東山町となる。尾長西(おながにし)
尾長東(おながひがし)
大須賀(おおすが)
大須賀(おおすが) |
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地名の由来は、「この所もと海辺の大洲なりしを田地となし、永々国の益たるを賀して大洲賀とよひしを、後また文字をあやまりて大須賀と書し、といふ俗説あれと信られす、菅和名須計唱への響きによりて又須賀ともいヘハ、大菅村にてもあらんか」と「知新集」にある。 江戸期からの村名で、安芸国安芸郡(もと安南郡)のうち広島藩領城下新開組に属す。猿猴橋東詰の松原から北方の尾長山腹にある東照宮に至る道は桜並木で、桜馬場と呼ばれた。(広島城明細絵図)明治6年に猿猴川対岸の台屋町との間に台屋町渡が開始された。明治15年に尾長村と境界変更し、古川村の一部、明星院村一円を編入。また一部が愛宕町・猿猴橋町の各一部となる。明治22年に広島市の大字になる。 明治23年に約20万坪の耕地を買い上げ東練兵場を建設。北部山麓に射的場、その西隣に騎兵第5連隊が置かれ、大部分が軍用地となる。日清戦争直前の明治27年に山陽鉄道が糸崎から広島まで延長され、広島駅が練兵場の南に建設された。駅前東松原には旅館・運送店・飲食店等が出来て賑わった。その後大陸派兵のために広島駅から宇品港へ軍用鉄道が建設され、明治39年には山陽鉄道が下関まで延長された。 明治40年に大須賀町となり、日露戦争中には広島駅から宇品へ軍事郵便馬車が営業を開始し、戦後払下げられたが大正元年に広島電気の市内電車が開通して以後消滅した。昭和8年に一部が松原町・若草町・二葉の里となる。第2次対戦後には東練兵場は国鉄用地・市営アパートとなった。昭和45年に一部が上大須賀町となる。大須賀町は南区となる。 |
上大須賀町(かみおおすがちょう)
昭和45年からの町名。もとは広島市大須賀町の一部。中山(なかやま)
中山(なかやま) |
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中山川に沿った狭い谷あいの地。鎌倉期からの地名で、安芸国安南郡。後三条天皇が安芸国に設定した新勅使田に中山の地名が見える。 江戸期は中山村で安芸国安芸郡、広島藩領蔵入地。仏護寺開基の地とされる。明治22年に中山村となり、明治期以降多くの海外移民を送りだす。昭和31年に広島市の町名となる。昭和55年に広島市東区。中山町東谷に縄文〜弥生時代の貝塚である中山遺跡がある。 |
中山鏡が丘(なかやまかがみがおか)
昭和54年から現在の町名。もとは中山町の一部。中山上(なかやまかみ)[1〜2丁目]
昭和54年から現在の町名。もとは中山町の一部。中山新町(なかやましんまち)[1〜3丁目]
昭和54年から現在の町名。もとは中山町・戸坂町の各一部。中山西(なかやまにし)[1〜2丁目]
昭和54年から現在の町名。もとは中山町の一部。中山中町(なかやまなかまち)
昭和54年から現在の町名。もとは中山町の一部。中山東(なかやまひがし)[1〜3丁目]
昭和54年から現在の町名。もとは中山町の一部。中山南(なかやまみなみ)[1〜2丁目]
昭和54年から現在の町名。もとは中山町の一部。中山北町(なかやまきたまち)
昭和54年から現在の町名。もとは中山町の一部。温品(ぬくしな)
温品(ぬくしな) |
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呉娑々宇山を源とする温品川(府中大川)に沿った谷合の地。古くは海辺の地で、「芸藩通史」に「金碇と呼ぶ地、往年鉄碇を掘出せしといふ、其地一段許は、今に深泥幾丈を知らず、耕種牛を入ることを得ずといふ、また舟隠とよぶ地もあり」と記す。鎌倉期から温品村の村名が見える。承久の乱ののちに平(金子)慈蓮が任じられる。金子氏は室町期には温科氏を称し永町山城に居城した(芸藩通史)。その後毛利家臣へ分給された。 江戸期は、安芸国安芸郡(もと安南郡)広島藩領蔵入地。 明治22年温品村となる。明治10年に始まった移民は大正10年に365人を数えた。昭和31年に安芸町の大字となる。昭和49年に広島市となる。 |
温品(ぬくしな)[1〜8丁目]
昭和58年から現在の町名。もとは安芸町温品の一部上温品(かみぬくしな)
昭和58年から現在の町名。もとは安芸町温品・馬木の各一部。温品町(ぬくしなちょう)
昭和58年から現在の町名。もとは安芸町温品の一部。光が丘(ひかりがおか)
昭和39年から現在の町名。もとは二葉の里・尾長町の各一部。光町(ひかりまち)
昭和39年から現在の町名。昭和45年に1〜2丁目がある。もとは尾長町。蟹屋(かにや)
蟹屋(かにや) |
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地名の由来は、「五郎右衛門といふものこのところに住ミ蟹をほり取、しろなして世を渡りけるより」と知新集にあり。また、一説に福島正則の家臣可児才蔵の持地ともいわれる(広島市史) 江戸時代は矢賀村の別称で蟹屋新開とも呼ばれた。明治15年から明治22年は蟹屋村、明治22年から大正5年に蟹屋となり大正5年に蟹屋町となる。昭和8年から44年には西蟹屋町・南蟹屋町・東蟹屋町となる。・若草町の各一部で、昭和45年に山根町の一部を編入。西蟹屋町・南蟹屋町は南区となる。 |
東蟹屋町(ひがしかにやちょう)
昭和8年からの町名。もとは広島市蟹屋町の一部。東駅町の北側に位置する。昭和55年に東区役所が設置された。東山町(ひがしやまちょう)
昭和47年から現在の町名。もとは広島市尾長町・矢賀町の各一部。二葉の里(ふたばのさと)
昭和8年から現在の町名。もとは大須賀町・尾長町の各一部。町名は大須賀町字二葉の里にちなむと思われる。二葉山の南麓に位置し、二葉山麓に旧広島藩主浅野家の祖浅野長政夫妻を祭神とする饒津神社があり、同社の境内は明治7年県指定の二葉公園となった。同じ山麓に浅野長政夫妻の位牌を安置する浅野氏祈願所明星院、同寺鎮守杜鶴羽根神社、東照宮などの社寺がある。南部にあった東練兵場は、戦後国鉄用地・住宅地となった。二葉山は東西に細長い花崗岩の山で南斜面は眺望が良く、昭和30年ころに宅地化が進む。泉邸といわれる縮景園はこの山を借景とし、泉水はここから引いていた。頂上までは東川から車道が通じ車で登れる。頂上には仏舎利塔がある。東照宮の裏に金光稲荷神社があり、そこから山頂へ登れ眺めが良いが急斜面である。東照宮の西には広島県神社廳がある。
福田(ふくだ)
福田(ふくだ) |
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三篠川支流の小河原川流域の山間部に位置する。 戦国期からの地名で、安芸国安北郡のうち。福田村は江戸期からの村名で、広島藩領蔵入地。明治22年に福木村の大字となる。昭和31年に安芸町の大字となり、昭和49年に広島市となる。 |
福田(ふくだ)[1〜8丁目]
昭和58年から現在の町名。もとは安芸町福田・安芸町馬木の各一部。福田町(ふくだまち)
昭和58年から現在の町名。もとは安芸町福田の一部。 昭和8年から現在の町名へ。もとは南竹屋町の一部。戸坂(へさか)
戸坂(へさか) |
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太田川の流域で、古代山陽道はこの地で太田川を渡っていた。戸坂は鎌倉期から見える地名で、安芸国安南郡のうち。在庁官人田所氏の田畠があったことが見える。室町期には守護武田氏の支配下にあったと思われ、武田氏の有力家臣に戸坂氏があり、茶臼山城に武田氏家臣の戸坂海道が居城したと伝える(国郡志書出帳)。なお、知新集では芥川氏が狐瓜木(くるめぎ)村を領したと見え、戸坂狐瓜木とする説もある。その後大内方の毛利氏と武田・尼子氏勢がこの地で戦い、毛利氏の支配となる。江戸期からは戸坂村で、安芸国安芸郡(もと安南郡)、広島藩領で浅野家家老上田氏の給地。太田川は慶長12年の洪水で八木から現在の流路となる。狐瓜木神社は戸坂・東原・西原の氏神。明治22年からは自治体としての戸坂村となり、昭和30年に広島市戸坂町となる。 |
戸坂くるめ木(へさかくるめぎ)[1〜2丁目]
昭和49年から現在の町名。もとは戸坂町・牛田町の各一部。戸坂桜上町(へさかさくらうえまち)
昭和49年から現在の町名。もとは戸坂町の一部。戸坂桜西町(へさかさくらにしまち)
昭和49年から現在の町名。もとは戸坂町の一部。戸坂桜東町(へさかさくらひがしまち)
昭和49年から現在の町名。もとは戸坂町の一部。戸坂山根(へさかやまね)[1〜3丁目]
昭和49年から現在の町名。もとは戸坂町の一部。はじめは2丁目まで、昭和61年から3丁目までとなる。戸坂山崎町(へさかやまさきちょう)
昭和49年から現在の町名。もとは戸坂町の一部。戸坂出江(へさかいずえ)[1〜2丁目]
昭和49年から現在の町名。もとは戸坂町の一部。戸坂城山町戸坂新町(へさかしんまち)[1〜3丁目]
昭和49年から現在の町名。もとは戸坂町の一部。戸坂数甲(へさかかずこう)[1〜2丁目]
昭和49年から現在の町名。もとは戸坂町の一部。戸坂千足(へさかせんぞく)[1〜2丁目]
昭和49年から現在の町名。もとは戸坂町の一部。戸坂大上(へさかおおあげ)[1〜4丁目]
昭和49年から現在の町名。もとは戸坂町の一部。戸坂惣田(へさかそうだ)[1〜2丁目
昭和49年から現在の町名。もとは戸坂町の一部。戸坂中町(へさかなかまち)
昭和49年から現在の町名。もとは戸坂町の一部。戸坂南(へさかみなみ)[1〜2丁目]
昭和49年から現在の町名。もとは戸坂町の一部。山根町(やまねちょう)
昭和39年から現在の町名。もとは広島市尾長町の一部。昭和45年に一部が光町となる。矢賀(やが)
矢賀(やが) |
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「秋長夜話」では「和名抄」の駅家に比定する。 矢賀村は鎌倉期からの村名。安芸国安南郡のうち。江戸期は、安芸国安芸郡(もと安南郡)で広島藩領蔵入地。屋賀村とも書いた。江戸初期に当村の地先の入江で新田開発が進み、矢賀村・大須賀新開となる。百足山西麓は尾長村として分離する(知新集)。当村から尾長村のうち片河町より矢賀村に越す矢賀峠には福島正則の家臣でその勇猛を謳われた可児才蔵の墓があり、この墓に祈ると歯痛が治まるという言い伝えがある。この峠を通っていた西国街道は、元禄年間の大須新開築成の後に岩鼻を廻るルートに変更された(県史)。明治22年に矢賀村となる。 矢賀新開・蟹屋新開は、「知新集」で「ここを矢賀村といふハいにしへ大須新開古川村なといまたひらけざるさきハ土地郡分の矢賀村につゝき、なへてこのあたりの惣名なりけんを、今ハ間に大須古川二村をおき郡分の矢賀村とハ土地をへたゝりたれとも猶そのかミの名をよひて矢賀村といふ」とある。広島城下新開組に属す。当村の鎮守荒神祠は慶安年間の頃洪水の際に流れ着いた神体を祀ったという(知新集)。明治15年に尾長村・愛宕町・猿猴橋町・蟹屋村・荒神町となる。 明治22年から自治体の矢賀村となり、昭和4年に広島市の町名となる。 |
矢賀(やが)[1〜2丁目]
昭和47年から現在の町名。もとは矢賀町・中山町の各一部。矢賀新町(やがしんまち)[1〜4丁目]
昭和17年から現在の町名。もとは、矢賀町・大洲町の各一部。若草町(わかくさちょう)
昭和8年からの町名で、もとは広島市大須賀町の一部。町名の由来は、町の背後は東練兵場で、練兵場に萌える若草にちなむ。(町名の沿革)一部が昭和39年に光町へ、同40年に松原町となり、尾長町の一部を編入した。
この一覧表は、郵便番号一覧をもとに作成していますのでアイウエオ順と相違してます。