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広島市町名一覧表 >>安佐北区(2003/1/3-2004/9/23作成)
安佐郡(あさぐん)
安佐郡(あさぐん) |
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明治32年から昭和48年の郡名。廣島デルタの北西部に位置。高宮郡(安北)・沼田(佐東)の両郡が合併したため、両郡の旧名の安北・佐東から1ずつとった名。昭和4年に三篠町、46年に沼田町・安佐町、47年に可部町・祇園町、48年に安古市町・佐東町・高陽町が広島市に合併編入されて郡全域が広島市となる。
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安佐町(あさちょう) |
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昭和30-46年の町名。鈴張・飯室・久地・日浦・小河内の5村が合併して成立。町名は、郡内初の合併町から郡名を採用(県市町村合併史)字として、小河内・鈴張・飯室・久地・後山・毛木・宮野・筒瀬があった。
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安佐町あさひが丘
昭和50年から現在の町名。もとは、後山と毛木の一部。JA安佐の住宅団地造成(あさひが丘団地)によるもの。
安佐町くすの木台(あさちょうくすのきだい))
昭和51年から現在の町名。もとは安佐町久地・沼田町阿戸の各一部。住宅団地。
安佐町後山(うしろやま)
後山(うしろやま) |
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地名の由来は、野登呂山の後面にあることから(芸藩通志)
戦国期は、毛利氏が知行。江戸期から明治22年までの村名。安芸国沼田郡のうち、広島藩領明地・給地入交じる。「後山行李に筒瀬籠」といわれ、竹製品が有名(安古市町誌)
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安佐町後山(うしろやま)
明治22年から現在の大字名。はじめは日浦村、昭和30年から安佐町、昭和46年から広島市。
小河内村
小河内村 |
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太田川とその支流小河内川の流域にある。「和名抄」の安芸郡河内郷とする説がある。(地名辞書)室町期から見える地名で安芸国佐東郡のうち。在地名の小河内氏は、旧姓が武田であり大永の頃の牛頭山城主小河内弥太郎は金山城主武田刑部少輔の舎弟であったが、金山落城とともに小河内氏も滅び、代わって保利氏が知行した。小河内村は、江戸期から明治22年の村名。(安芸国沼田郡・もと佐東郡)明治22年から自治体となり、明治31年から安佐郡へ。
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安佐町小河内(おがうち)
昭和30年に合併して安佐町の大字となり、昭和46年に広島市安佐町小河内となり、昭和55年に広島市安佐北区となる。
筒瀬村
筒瀬村 |
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筒瀬川と玖谷川の流域で、戦国期には「つゝせ」とが見える。(毛利家文書)また、当地内に若狭原の小地名があり、「芸藩通志」「県史」などでは「和名抄」若狭郷の遺名とする。「後山行李に筒瀬籠」といわれ、籠などの竹製品が有名(安古市町誌)。江戸期から筒瀬村となり、明治15年に後山の一部を編入し、明治22年に日浦村の大字となる。
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安佐町筒瀬(つつせ)
昭和30年から安佐町筒瀬、昭和46年から広島市、昭和55年に広島市安佐北区。
昭和54年から現在の町名。もとは、安佐町後山の一部。町名は、同地の安佐動物公園に因む。
飯室村
飯室村 |
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鈴張川流域の山間部に位置し、地名の由来は往古諸国に設置された氷室にちなむもの(郡中国郡志)といわれ、また「按に凡地名に飯といふものの中には□(木偏に威)の義なるもの少なからず・・・又室は村の義なるもの多し、参考すべし」(県史)とある。飯室は鎌倉期から見える地名で、小河内・鈴張とともに吉川興経に、その後熊谷信直の領地とされる。飯室村は江戸期から明治22年まで安芸国高宮郡(もと安北郡)の村名。この地の畳表は飯表と呼ばれた。明治22年から自治体高宮郡飯室村となり、明治31年に安佐郡
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安佐町飯室(いむろ)
昭和30年安佐町となり、昭和46年広島市、昭和55年から広島市安佐北区となる。
毛木村
毛木村 |
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太田川と支流の毛木川の流域に位置し、太田川対岸の毛木に対して西毛木とも呼ばれた毛木村は、鎌倉期から見え、安芸国佐東郡のうちとされる。鎌倉中期の田所文書に「阿土毛木村三丁四反大」とあり阿土(現在の沼田町阿戸)と一村であった。毛木村は、江戸期から明治22年の村名で、元和5年の「知行帳」には「けき村」とある。毛木氏の居城と伝えられる城址がある。明治22年に日浦村
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安佐町毛木(けぎ)
昭和30年から安佐町、昭和46年から広島市、昭和55年に広島市安佐北区となる。
鈴張
鈴張 |
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古くは錫張とも書き、太田川支流の鈴張川の上流地域で、この地に鈴を張る鍛冶が居たことによる。(郡中国郡志)戦国期からの地名。鈴張村は、江戸期からの村名で、安芸国高宮郡(もと安北郡)。山繭紬織が有名で、鈴張紬の名で呼ばれた。また、薪は太田川で運ばれ「鈴張村の大センバ」と呼ばれた。明治22年から自治体鈴張村となり、明治31年から安佐郡となる。
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安佐町鈴張
昭和30年に安佐町の大字となり、昭和46年に広島市、昭和55年に広島市安佐北区となる。
久地村
久地村 |
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和名抄の伊福郷の所在として「今久地村の辺なるべし」と地名辞書にある。鎌倉期から戦国期は久知村。安芸国佐東郡のうちで、厳島社領。江戸期から明治22年は久地村。安芸国沼田郡のうち。広島藩領で明地・給地入交じる。明治31年から安佐郡。
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安佐町久地(くち)
昭和30年がら現在の町名。初めは安佐町、昭和46年から広島市、昭和55年から安佐北区となる。
宮野村
宮野村 |
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江戸期〜明治22年の村名。安芸国沼田郡のうちで広島藩領蔵入地。宮野八幡神社がある。明治4年広島県に所属。
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安佐町宮野(みやの)
明治22年から現在の大字名。
小河原
小河原 |
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小河原川と三篠川流域の山間部で、地名は「小河ニ附添候村方上深川ニ並居申候ニ付旁以」と「郡中国郡志」にある。
小河原村は、江戸期からの村名で安芸国高宮郡(もと安北郡)で蔵入地。藩から幕府献上の干柿を可部・深川筋の村々で製造させられたが、小河原村にも柿の木70本があった。現在は鶏卵の生産が有名である。明治22年に狩小川村の大字となる。
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小河原町(おがわら)
明治22年に狩小川村となり、昭和30年に高陽町、昭和48年に広島市、昭和55年に広島市安佐北区となる。
大林
大林 |
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備前坊山の南東、根谷川の流域で、「往古ハ山林モ克ク立茂リ居候故」という(郡中国郡志)。江戸期からの大林村は、家老堀田浅野家と藩士の給地。伊勢ケ坪城跡は承久の乱後三入荘に入部した熊谷氏が最初に依った城でその後下町屋村の高松城へ移転。明治22年大林村となる。始め高宮郡、その後安佐郡に。昭和47年から広島市可部町大林となり、昭和55年に広島市安佐北区可部町大林。
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大林(おおばやし)
昭和61年からの町名。1〜4丁目まで。
大林町(おおばやしちょう)
昭和61年から安佐北区の町名。もと大林の一部。
高陽町(こうようちょう)
高陽町(こうようちょう) |
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昭和30年に狩小川村、口田村、落合村、深川村が合併して成立。町名の由来は、明治34年に旧4村の組合立高陽中学校が開校し、この学校名による。高陽は、高宮郡の南という意味。(高陽町史)昭和48年に広島市へ吸収合併。
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落合
落合 |
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太田川とその支流諸木川・落合川の流域。地名は、「旧県史」では川名とされる。また「高陽町史」では太田川とその支流が落ち合う地域、または谷々が落ち合う地域であるためとされる。
落合村は、明治28年からの自治体で始めは高宮郡、明治31年から安佐郡。明治28年に深川村の一部が分村して落合村となる。(農業中心の深川に対して木履生産の落合の違いによるものといわれる。)昭和30年に高陽町へ。江戸期以来玖村下駄の名前で知られる。岩上、玖、諸木、末光の大字がある。
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落合(おちあい)
昭和61年から広島市安佐北区の町名。1〜5丁目まである。もとは高陽町法内、高陽町柿木通と高陽町田中と高陽町玖・高陽町金平・高陽町岩上・高陽町真亀・高陽町亀崎・高陽町諸木の各一部。
落合南(おちあいみなみ)
昭和61年から安佐北区の町名。高陽町浄水場と高陽町光掛と高陽町城ケ丘・高陽町岩上・高陽町矢口・高陽町玖・高陽町金平・高陽町諸木・高陽町末光・高陽町倉掛の各一部。
落合南町(おちあいみなみまち)
昭和61年から安佐北区の町名。高陽町岩上・高陽町末光・高陽町諸木・高陽町倉掛の各一部
可部
可部 |
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太田川支流の根谷川の右岸地域で古くは南市村と呼ばれた。平安期には、漢弁郷とされ、「和名抄」の安芸国安芸郡十一郷のひとつ。漢弁は綾部の意とされ、綾ケ谷には綾が党の地名がある。(芸藩通志)「安芸長夜話」には、漢弁を河戸(こうど・亀山南付近)とし、「河戸(かべ)とは河の口をいふ。此地太田川の口なるゆえ」とする。JR可部線の河戸駅がある。漢弁郷は、北は可部温泉(ジャングル温泉の付近・現在は、区民文化センター、温泉ケ丘団地がある。)、南は県道267宇津可部線、東は根谷川西岸、西は灰川(現在の灰川橋)のあたりとされる。平安末期から戦国期は可部荘とされ、安芸国安北郡のうち。鳥羽上皇が高野山に「安芸国可部庄用途百八石」を寄進するとある。(高野山文書)その後、大永頃毛利元就が大内氏から可部を与えられ、熊谷信直に与えている。(熊谷家文書)戦国期には可部市が現在の可部1〜9丁目旧道付近にあり、高松城下町として、また陸上、水上の要衝として発達した。
江戸時代からは可部町として安芸国高宮郡(もと安北郡)の広島藩領蔵入地。近世前期には、渡り町・寺町・中ノ町・胡町・上ノ町の本通り筋5町が成立した。上ノ町には観音堂、胡町には胡祠がある。渡り町から山県郡津志見に至る庄原往還、下町屋村から石見路が分岐する交通の要所とされる。(宿場町)川舟の発着場である船入堀は帆待川・根谷川を経て年貢米等を積んで太田川を下った。近世前期から鋳物生産が盛んであったが、明治初年の贋金製造に関与して一時衰退した。明治22年からは自治体の可部町。始めは高宮郡で、明治31年から安佐郡となる。明治末から、清酒・醤油醸造・織物とならび風呂釜・鍋等の鋳物工業が主要産業となる。現在でも五右衛門風呂の大和重工が可部駅前にある。
明治30年から広島〜可部間に13人乗馬車が運行、明治36年には日本初の乗合いバスが横川間を運行したが、すぐに廃止。明治43年に横川まで広島軽便鉄道(現JR横川線)が開通し、大正期に自動車輸送の発達により川舟輸送は昭和10年に消滅した。昭和17年に中原村を、昭和30年に三入村と大林村を合併。昭和47年に広島市へ合併。可部町の福王寺山南斜面に古墳時代後期の古墳郡、可部古墳群がある。
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可部(かべ)
昭和17年からの町名。昭和47年に広島市、昭和55年に広島市安佐北区の大字。昭和61年に可部1〜9丁目となる。もとは、可部町可部、可部町中野、可部町中島・可部町大毛寺・可部町城・可部町下町屋の各一部。
可部東(かべひがし)
昭和61年からの町名。1から6丁目。もと安佐北区可部町上原・可部町下町屋の各一部。
可部南
綾ケ谷(あやがだに)
綾ケ谷(あやがだに) |
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大毛寺川・小南原川流域の山間部。地名の由来は、地内に綾が党の地名が残り、綾を織る綾織屋敷があったことによる。(郡中国郡志)福王寺山頂の福王寺は天長5年空海の開基と伝える古刹。綾谷は室町期に見える地名で、安芸国安北郡のうち。金亀山の福王寺縁起によると天長帝(淳和天皇)が福王寺に綾谷・九品寺・大毛寺三邑を寄進したとあり。綾ケ谷村は、江戸期から明治22年の村名で、大工内藤与右衛門の調整した算盤は「綾ケ谷算盤」として高名。また、山繭織や筵(むしろ)、箸を生産。
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可部町綾ケ谷(かべちょうあやがだに)
明治22年から亀山村大字綾ケ谷。昭和30年から可部町、昭和47年から広島市、昭和55年から広島市安佐北区。
桐原(とげ)
桐原(とげ) |
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根谷川に合流する桐原川の流域で、昔は戸毛とも書かれた。地名の由来は、熊谷氏の家臣桐原備前守の屋敷跡が地内にあったことにちなむ。(郡中国郡志)鎌倉期からの地名で、安芸国三入荘のうちとされる。「新城山 桐原村にあり、桐原備前所居」とされ、新城は桐原城で新庄方熊谷氏居城である。(芸藩通志)
桐原村は、江戸期から明治22年の村名で安芸国高宮郡(もと安北郡)広島藩領。上中野村品窮寺の前身桐原寺跡、上町屋村に移った西光寺跡がある。明治22年三入村の大字となる。
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可部町桐原(かべちょうとげ)
明治22年から三入村。昭和30年に可部町、昭和47年広島市、昭和55年から安佐北区の大字。昭和61年に一部が三入1〜7丁目・三入東1〜2丁目・三入南1〜2丁目となる。
今井田(いまいだ)
今井田(いまいだ) |
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今井田は太田川の湾曲部、左岸流域に位置する。今井田・柳瀬の2郷がある。地名の由来は、今井田は今枝の転訛したもの、柳瀬は柳の木のある瀬、一説には藩の簗所が掛けられた地の意味といわれる。(郡中国郡志)江戸期からの村名で安芸国高宮郡(もと安北郡)で今井田柳瀬村ともいう。広島藩蔵入地。もとは上四日市村・下四日市村の枝郷で、寛永15年に分村。明治22年に亀山村の大字となる。
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可部町今井田(かべちょういまいだ)
明治22年から亀山村の大字、昭和30年から可部町、昭和47年広島市、昭和55年から広島市安佐北区。明治45年に亀山発電所が太田川水系初の発電所として送電を開始し、中区大手町の火力発電所を停止したが、昭和40年に洪水で廃止。大正40年に今井田発電所が運転開始する。昭和61年に一部が亀山南1〜5丁目となる。
勝木(かつぎ)
勝木(かつぎ) |
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大毛寺川・行森川の流域に位置する。地名の由来は、采配の柄となる勝木(フシノキとも)の大木がフシノ木原の観音寺跡にあったことによる。(郡中国郡志)勝木村は、江戸期からの村名。安芸国高宮郡(もと安北郡)法泉庵薬師堂は仏護寺十二坊のひとつ報専坊(広島寺町)の故地で、もと真言宗実相山法泉寺と号す。明治22年に亀山村の大字となる。
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可部町勝木(かべちょうかつぎ)
明治22年に亀山村の大字、昭和30年に可部町、昭和47年に広島市、昭和55年に広島市安佐北区となる。昭和61年に一部が亀山1〜9丁目となる。
上町屋(かみまちや)
上町屋(かみまちや) |
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備前坊山の南、根谷川の流域で、地名の由来は高松城の城下に成立した市による。(旧県史)
上町屋村は江戸期からの村名で、安芸高宮郡(もと安北郡)の広島藩領。根谷川沿いに雲石往還、南原川に沿って石見路がある。明治22年に三入村の大字となる。
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可部町上町屋(かべちょうかみまちや)
明治22年からの大字で、昭和30年に可部町、昭和47年に広島市、昭和55年に広島市安佐北区となる。昭和61年に一部が三入1〜7丁目、大林1〜4丁目となる。
中島(なかじま)
中島(なかじま) |
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根谷川と太田川に挟まれた低地に位置する。地名の由来は、北に太田川・根谷川を結ぶ帆待川があって、川中州となることから。(芸藩通志)中島村は、江戸期からの村名で安芸国高宮郡(もと安北郡)広島藩領蔵入地。享保16年に焼失した江戸御屋敷の用材伐りだした「御留松原」の跡地を開墾して松原新開とした。また、天和〜元禄年間に尾崎新開が開発された。代々庄屋を勤めた二階堂家の祖先は高松城に居住したが、熊谷直時に敗れこの地に隠居した。(芸藩通志)当地には山林がなく、八木村・上原村・下深川村に山手銀を支払って入会。このため、根谷川に架かる彼岸橋は、秋の彼岸に架け、春の彼岸に落としたことからこの名がついた。明治22年中原村の大字となる。
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可部町中島(かべちょうなかじま)
明治22年から中原村の大字、昭和17年に可部町、昭和47年に広島市、昭和55年に広島市安佐北区となる。昭和32年に可部女子高校(現在広島文教女子大附属高校)が開校。昭和61年に一部が可部1〜9丁目・可部南1〜5丁目となる。
南原(なばら)
古くは名原と書いた。南原川に沿った谷あいの地域。地名の由来は、「可部山ノ南ニ而原郷村ニ御座候故」とある。(郡中国郡志)
南原郷は、南北朝期に見える郷名で、安芸国安北郡にあり。可部荘と接して名原両村とされ、九品寺村を下南原村と呼んだ。(芸藩通志)南原村は、江戸期からの村名で、安芸国高宮郡(もと安北郡)の広島藩領。石見浜田路は、下町屋村追分橋で雲石路とわかれ、南原川に沿って北上し、可部峠を越えて山県郡本地村へ抜ける。昔は峠上に一里塚とともに茶店があった。(芸藩通志)明治中期に車道へ改修できないため、可部峠道は廃止され、鈴張峠を迂回した。明治22年に三入村の大字となる。
可部町南原(かべちょうなばら)
明治22年からの大字名で、昭和30年に可部町、昭和47年に広島市、昭和55年から広島市安佐北区。
亀崎(かめざき)
昭和61年から安佐北区の町名。1〜4丁目まで。もとは、高陽町亀崎・高陽町中深川の各一部。安佐北区中深川に亀崎八幡神社がある。
亀山(かめやま)
太田川・大毛寺川の流域に位置する。明治22年から亀山村で、始めは高宮郡、明治31年から安佐郡へ。今井田、勝木、大毛寺、四日市、綾ケ谷の5ケ村が合併して亀山村となる。村名の由来は、綾ケ谷にある福王寺の山号金亀山による。(県市町村合併史)昭和30年に可部町となる。
亀山(かめやま)
昭和61年から安佐北区の町名。1から9丁目まで。もとは、安佐北区可部町四日市・可部町大毛寺・可部町虹山・可部町勝木の一部。
亀山西(かめやまにし)
亀山南(かめやまみなみ)
昭和61年から安佐北区の町名。1から5丁目まで。もとは、安佐北区可部町四日市・可部町今井田・可部町大毛寺・可部町虹山・可部町勝木の各一部。
大毛寺(おおもじ)
古くは重吉村。大毛寺川の流域に位置し、地名の由来は地内の寺、大文寺による。(郡中国郡志)中ノ坪、呉坪、梅ノ木坪などの地名が残る。大毛寺村は、室町期からの村名で、安芸国安北郡で金亀山の福王寺縁起によると天長帝(淳和天皇)が福王寺に綾谷・九品寺・大毛寺三邑を寄進したとあり。大毛寺村は江戸期からの村名。明治22年に亀山村となる。昭和47年に可部町大字大毛寺、昭和47年から広島市、昭和55年から広島市安佐北区となる。昭和46年に一部が虹山となる。
四日市(よっかいち)
太田川と大毛寺川の流域に位置し、地名の由来は毎月4日に市が立ったことによる。(郡中国郡志)四日市村は、江戸期の村名で、安芸国安北郡のうちで上四日市村と下四日市村に元和5年頃までに分村したが、明治15年に上四日市・下四日市村が合併して四日市村とった。明治22年に亀山村の大字となる。昭和30年に可部町四日市、昭和47年に広島市可部町四日市、昭和55年から安佐北区大字四日市、昭和61年に亀山1〜9丁目、亀山南1〜6丁目となる。
狩留家
狩留家 |
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三篠川に添った谷あいの地。地名の由来は、昔皇室の料地で稲置仮倉が設けられたことによる。(県市町村合併史)また、出雲の国から来た狩留家姫が住みついたことによる、高鉢山へ殿様が泊まりがけで鷹狩りに来たことによる、狩猟に来た者が豪雪に降りこめられたことによるなどの伝承がある。(高陽町史)
加留賀は、平安期からの地名で安芸国安北郡のうち。狩留家村は、江戸期からの村名。安芸国高宮郡(もと安北郡)で広島藩領、蔵入地。江戸初期は福田村の飛郷。明治22年に狩小川村の大字となる。昭和30年に高陽町、昭和48年に広島市、昭和55年から広島市安佐北区となる。
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狩留家町(かるがちょう)
小田村
小田村 |
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太田川の左岸に位置する。小田村は、江戸期から明治22年の村名。安芸国高宮郡(もと安北郡)広島藩領、家老三原浅野家給地。承応年間頃まで小田村と矢口村は1村とされる。(芸藩通志)明暦3年に太田川から取水する小田常用水が庄屋丸子市郎兵衛父子により完成。小田八幡宮は、北之庄4ケ村(小田・矢口・古市中筋・東野)の氏神である。明治22年に口田村の大字となる。
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矢口村 |
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太田川水系矢口川の流域に位置する。鎌倉期の安芸国神名帳の「矢口明神」は「芸藩通志」では矢口村内の賀茂神社が明神のうちとする。矢口村は、江戸期から明治22年までの村明で安芸国高宮郡(もと安北郡)広島藩領、家老三原浅野家給地。承応年間頃まで小田村と矢口村は1村とされる。(芸藩通志)明治22年に口田村の大字となる。
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口田 |
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ニケ城山の西方、太田川の左岸に位置する。口田村は、明治22年からの自治体で高宮郡。明治31年からは安佐郡へ。小田・矢口の2か村が合併して成立した。(村名は旧村名から1字づつとったことによる。)旧村名を大字とし、矢口に役場を設置。
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口田(くちた)
昭和61年から安佐北区の町名。もとは高陽町矢口・高陽町翠光台・高陽町岩上の各一部。
口田町(くちたちょう)
昭和61年から安佐北区の町名。もとは安佐北区高陽町矢口・高陽町翠光台の各一部。
口田南(くちたみなみ)
昭和61年からの安佐北区町名。1から9丁目。もとは安佐北区高陽町鳥越・高陽町絵坂と高陽町小田・高陽町矢口・高陽町岩上・高陽町城ケ丘の各一部。
口田南町(くちたみなみまち)
昭和61年から安佐北区の町名。もとは安佐北区高陽町小田・高陽町矢口の各一部。
高陽町倉掛
昭和53年からの町名。もとは高陽町中深川、高陽町諸木の各一部。
倉掛(くらかけ)
昭和61年から広島市安佐北区の町名。もとは安佐北区高陽町倉掛、高陽町諸木、高陽町亀崎の各一部。倉掛のぞみ園や市防災センターがある。
白木町
白木町 |
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昭和31年に三田・高南・井原・志屋の4か村が合併して成立。高田郡に属し、三篠川の上・中流域に位置する。白木町は、白木山にちなむ。(県市町村合併史)白木山は、白木町地区にある山で標高889.8m。名前の由来は、山頂一帯に中国クマザサが繁茂し、遠くから望むとその葉が白く光り雪が降ったように見えることに由来するとされる。昭和48年に広島市へ合併。
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井原(いばら)
井原(いばら) |
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三篠川上流の河谷に位置する。地名の由来は、もと三田郷井村の内とし、「後分かちて、終に古名を訛て井原とよびにや」とする。(芸藩通志) また、鍋谷城に居住した井原小四郎にちなむとも。(国郡志書出帳) 井原村は、平安期からの村名で、安芸国高田郡三田郷のうち。もと厳島社領であった。江戸期からは広島藩領。明治9年に、村内にあった古屋村・市川村の飛地を編入。昭和24年に市川村大寺地区を編入、昭和31年に白木町となる。
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白木町井原(しらきちょういばら)
昭和31年から白木町の大字。もと井原村で、昭和48年に広島市、昭和55年から広島市安佐北区。
古屋(こや)
古屋(こや) |
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三篠川支流の栄堂川流域の谷あいに位置する。戦国期は固屋村とされ安芸国安北郡のうち。江戸期からは、古屋村として安芸国高田郡、広島藩領。隣接する市川・井原両村に飛地十数か所があった。明治9年に村内の井原村飛地を編入し、市川・井原村の飛地をそれぞれの村に編入する。明治22年に志屋村の大字となる。
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白木町古屋(しらきちょうこや)
明治22年志屋村の大字で、昭和31年に白木町、昭和48年に広島市、昭和55年から広島市安佐北区となる。
志屋村(しやむら)
志屋村(しやむら) |
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明治22年から昭和31年までの高田郡の自治体。志路村と古屋村が合併して成立。村名は、もとの村名から1字づつとったもの。煙草(赤羽根産が有名)の生産や、長蛇ケ原鉱山・長谷鉱山などの銅山があり、明治期に盛んに産出・精錬された。三篠川支流栄堂川の上・中流域に位置した。
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三田(みた)
三田(みた) |
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三篠川に沿った谷あいに位置し、地名の由来は「御田なり、上古官田を置く所なり」とあり皇室領屯田(みた)に由来する。(旧県史)
三田郷は、平安期に見える郷名で「和名抄」安芸国高田郡七郷の一つ。郷域は、三田・秋山・小越・志路の4か村。(地理志料)また、「地名辞書」では三田村・秋越村とする。鎌倉期には、国衙領三田郷と厳島社領三田新荘に2分され、鎌倉中期には荘園とされる。江戸期は三田村とされ、高田郡のうちで広島藩領。昭和31年に白木町の大字となる。三田に己斐という知り合いの方がおれら、己斐は西区の己斐がもとで昔毛利に敗れて三田に隠居したのだという話しを聞いた。(詳しくは軍津浦輪物語参照)。
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白木町三田(しらきちょうみた)
昭和31年から白木町、昭和48年に広島市、昭和55年に広島市安佐北区。
市川(いちかわ)
市川(いちかわ) |
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三篠川に沿った谷あいの地から白木山に連なる山地。戦国期は市川村で安芸国高田郡のうち。江戸期から高田郡のうち広島藩領。もとは、秋山・小越両村と一村であった(芸藩通志)。明治9年に古屋・井原・小越各村の飛地を編入。明治22年に自治体の市川村となる。昭和24年に大寺地区が井原村に編入され、残余が高南村の大字となる。
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白木町市川
昭和31年に白木町、昭和48年に広島市、昭和55年に広島市安佐北区となる。
志路(しじ)
志路(しじ) |
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三篠川の支流栄堂川上流の地域。昔は志道とも書いた。
志道村は平安期の村名で安芸国高田郡のうち。江戸期から志路村。高田郡、広島藩領。高田郡・高宮郡の村から「志路たばこ」として煙草が可部町へ出荷された。明治22年志屋村の大字となる。
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白木町志路
志屋村から、昭和31年に白木町へ、昭和48年に広島市、昭和55年に広島市安佐北区となる。
秋山(あきやま)
秋山(あきやま) |
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三篠川と支流の川に沿った谷あいの地域。秋山村は戦国期からの村名で安芸国高田郡三田郷のうち。江戸期は安芸高田郡のうちで広島藩領。もとは小越と一村であったとする。明治22年に秋越村の大字となる。
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白木町秋山
明治22年に秋越村、昭和24年に高南村、昭和31年に白木町、昭和48年に広島市、昭和55年に広島市安佐北区となる。
小越(おこえ)
小越(おこえ) |
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三篠川と関川の合流地点に面した小平地。「おこい」「おこし」とも呼ばれた。小越村は平安期からの村名で、安芸国高田郡三田郷のうち。伊都岐島御領となり神主家佐伯景弘が知行。江戸期からは広島藩領高田郡。古くは秋山村と一村であった。明治9年市川村の飛地を編入。明治22年に秋越村となる。
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白木町小越
秋越村の大字、昭和24年に高南村、昭和31年に白木町、昭和48年に広島市、昭和55年に広島市安佐北区となる。
高南村(こうなんむら)
高南村(こうなんむら) |
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昭和24年に、秋越村と市川村(大寺地区を除く)が合併して成立。高田郡のうち、三篠川と支流の河津川・関川の河谷に沿った地域。村名の由来は、高田郡の南部の意味から。昭和24年に井原・秋川・三田の4中学校が統合して秋越村ほか4村の組合立高南中学校となる。昭和29年に有保村有留の一部が編入され大字有留となる。昭和31年に白木町へ。
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有留(ありどめ)
有留(ありどめ) |
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鎌倉寺山・神ノ倉山の東、有坂川沿いの狭い谷あいの地。南北朝期から戦国期には有富郷とあり、安芸高田郡のうち。江戸期からは有留村として高田郡のうち。広島藩領。明治22年に有保村となる。鎌倉寺山は「山の景牛の形に似たるを以って」牛岩と呼ばれ地名となる(高田郡誌)
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白木町有留
明治22年に有保村、昭和29年から向原村の大字。昭和29年に一部が高南村有留となる。昭和31年に白木町、昭和48年に広島市、昭和55年に広島市安佐北区となる。
有保村(ありほむら)
有保村(ありほむら) |
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明治22年に有留村と保垣村が合併して成立。村名はもとの村名から1字づつとった。昭和29年に江戸期の飛郷である有留の石堂・牛岩が高南村有留となり、残余が向原有留・保垣となった。
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深川
深川 |
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太田川支流三篠川の流域の地域。鎌倉期から戦国期は深川郷として、安芸国安北郡のうちにあり。三篠川が太田川との合流するあたりから狩留家付近までの流域。中世末期の深川郷の範囲は、江戸期の下深川村・中深川村・上深川村・狩留家村・小河原村・福田村で、岩上村・諸木村・末光村・玖村が含まれた時期があったらしい。上深川の友光は吉川興経の隠居所とされ天文16年8月に山県郡大朝新荘から移ったが、その後天文19年9月27日に毛利元就の命で熊谷信直と天野興重がこれを討った。
深川村は、明治22年からの自治体名で始めは高宮郡、明治31年から安佐郡。中深川・諸木・末光・玖・岩上村の6ケ村が合併して成立。明治28年に一部が落合村となり、下深川・中深川の2大字となる。柿の生産は明治期に郡下1位となるが大正期に衰退。醤油の生産高も多くなる。昭和30年に高陽町となる。
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深川(ふかわ)
昭和61年から広島市安佐北区の町名。1から8丁目。もとは、安佐北区高陽町下深川・高陽町真亀・高陽町亀崎・高陽町中深川・高陽町倉掛の各一部。
上深川(かみふかわ)
三篠川・小河原川の合流域に位置する。古くは上深川・中深川・下深川は1村であり、苻川とも書いた。地名の由来は「川筋に候故」という。(郡中国郡志)上深川町は、江戸期から明治22年の村名。安芸国高宮郡(もとは安北郡)広島藩蔵入地。明治22年に狩小川村の大字となる。昭和30年に高陽町となる。昭和48年に広島市、昭和55年に広島市安佐北区となる。弥生時代後期の上深川遺跡が、広島市安佐北区上深川町に所在する。
上深川町(かみふかわ)
昭和61年から広島市安佐北区の町名。
深川町(ふかわちょう)
昭和61年からの広島市安佐北区の町名。もとは安佐北区高陽町下深川・高陽町中深川の各一部。
高陽町真亀
昭和51年から広島市、同55年から広島市安佐北区の町名。もとは、安佐北区高陽町真亀、高陽町玖、高陽町下深川の一部。
真亀(まがめ)
昭和61年から広島市安佐北区の町名。1から5丁目まで。もとは、安佐北区高陽町真亀、高陽町玖、高陽町下深川の一部。
三入・彌理
三入・彌理 |
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平安期には弥(方に尓)理郷と見える。「和名抄」に安芸国安芸郡11郷の一つ。訓は「美理」。「地理志料」では「三入即弥理也」とされ、三入・上町屋・下町屋・桐原(とげ)・上原の5村とする。「地名辞書」では「今三入村・亀山村・大林村是ナリ、後世三入に作り、又可部庄に併せらる。」とし、「県史」では旧大林村、三入村を中心とする地域とする。なお、「地理志料」で上原は南原の誤りとされる。(角川日本地名大辞典)平安末期には三入保として安芸国安北郡に見える。保元3年12月3日の官宣旨に「安芸国美別府 三入保」とされる。(石清水文書)その後平安末期から戦国期には三入荘として荘園となる。江戸期の大林村・上町屋村・下町屋村・桐原村・上原村・可部村に比定される。平安末期に国衙領から石清水八幡宮領とされ、養和元年には新熊野社領とされる。(新熊野神社文書)新熊野社への寄進は永暦元年頃とされ、平清盛の力が働いたとされる(県史)。承久の乱の勲功賞として武蔵国熊谷郷の鎌倉御家人熊谷直時が三入荘地頭職に補任される。その後、直時と弟の資直の相論で2対1に分割した。桐原川流域が資直の領地として新荘とされ、これを除く根谷川本流域が直時の本荘とされた。信直の時に伊勢ケ坪城から高松城へ本拠を移した。新荘方一部地頭の熊谷蓮覚は南朝方として矢野城に滅んだ。(安芸区矢野参照)
三入村は、明治22年からの自治体名で、高宮郡に属し、明治31年から安佐郡へ。南原・上町屋・下町屋・桐原の4ケ村が合併して三入村となる。由来は桐原・上町屋・下町屋の氏神三入神社にちなむ。(県史)また、村内を流れる3つの川にちなむとする。(県市町村合併史)昭和30年に可部町の大字となる。
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三入(みいり)
昭和61年から安佐北区の町名。1から7丁目。もとは安佐北区可部町下町屋、可部町上町屋、可部町桐原、可部町大林の各一部。
三入東(みいりひがし)
昭和61年からの安佐北区の町名。1から2丁目。もとは安佐北区可部町桐原の一部。
三入南(みいりみなみ)
昭和61年から安佐北区の町名。1から2丁目。もとは安佐北区可部町下町屋・可部町桐原の各一部。
この一覧表は、郵便番号一覧をもとに作成していますのでアイウエオ順と相違してます。