阿戸町(あとちょう)
昭和49年熊野跡村が広島市と合併して阿戸町となった。中世は阿土村とよばれ、江戸初期に熊野跡村になった。
阿土村は、鎌倉期から戦国期に安芸国安南郡のうちに見える。官務家領阿土熊野保の阿土の地にあたると思われる。また、高倉院法華堂領世能荘内の地頭相交之地として荒山村・下世能村とともに「 阿土村」が安南郡世能荒山荘に含まれる地域もあったらしい。(清原家文書)
瀬野(せの)
上瀬野町(かみせのちょう)
上瀬野(かみせの)
上瀬野南(かみせのみなみ)
瀬野西(せのにし)
瀬野町(せのちょう)
瀬野南(せのみなみ)
瀬野南町(せのみなみまち)
瀬野は瀬野川流域の地域で、鎌倉期には世能荘として、江戸期には上瀬野村、下瀬野村となり、昭和6年に合併して瀬野村となる。昭和31年に畑賀村・中野村・瀬野村が合併して、町民からの公募により瀬野川町となった。昭和48年に広島市と合併して昭和59年に広島市安芸区の一部となる。世能荘は、中世鎌倉期から南北朝期に見える荘園名。安芸国安南郡のうち、瀬野川沿いに展開した太政官厨家領荘園。応安4年に九州下向の途中ここを通過した今川了俊は大山峠の山峡の情景を描写したのち「此山こえすぎて瀬野といふさとあり、ここもみなやまあひのほそ路なり駿河の宇津の山のおもかげぞうかべる」と記している。(道ゆきぶり)
中野(なかの)
中野町(なかのちょう)
中野東(なかのひがし)
中野東町(なかのひがしまち)
瀬野川の河谷に位置することから中野となったものか。「延喜式」の荒山駅は中野・畑賀あたりと比定される。(旧県史)江戸期から安芸国安芸郡(もと安南郡)のうち。瀬野川右岸旧街道筋の松並木は「出迎えの松」と呼ばれ、江戸期に帰国した藩主を家臣が付近まで出迎えたことに由来する。矢口神社は、阿曽沼氏が甲斐荒山荘から勧請した八幡宮をこの地の矢口社に合祀したもの。明治22年に自治体の中野村となり、明治27年に山陽鉄道が開通、大正10年に安芸中野駅が開設。昭和31年に瀬野川町の大字となり、昭和48年に広島市瀬野川町中野、昭和55年から広島市安芸区となる。 明治15年から現在の町名。もと稲荷町中組・東柳町・稲荷町東組の一部。北は京橋町から、稲荷大橋、柳橋に至る町。稲荷中組は、もと東大工町といった。(大工が多く住んでいた。ちなみに西大工町は今の中区榎町付近)元禄7年(1693)「天野」という人が稲荷神社を造ったことから、稲荷町の町名になった。畑賀(はたか)
畑賀町(はたかちょう)
瀬野川の支流畑賀川流域の小盆地。江戸期から明治22年まで畑賀村。明治22年から昭和31までは自治体の畑賀村。昭和31年に瀬野川町となり、大字畑賀村、畑賀となる。昭和48年に広島市瀬野川町畑賀となり、昭和59年から安芸区畑賀となる。船越(ふなこし)
船越南(ふなこしみなみ)
古くは包浦(鼓浦)の一部で有ノ浦(蟻浦)と呼ばれ、瀬野川河口右岸に位置する。地名の由来は、昔西に向かう航路があったことによる。(旧県史)西に隣接する仁保島に堀越の地名がある。(南区参照)鎌倉期から戦国は船越村。安芸国安南郡のうち。阿曽沼氏が進出し、大内氏に属していたが、その後大永3年頃に尼子・武田方となったため、大内軍が進軍した。(舟越合戦)江戸期は広島藩領で蔵入地。江戸期に瀬野川右岸の新田開発により、船越村松石新開が拓かれた。宿駅海田市に繋がる町並みを形成し、「間宿」として人馬と継立。(国郡志書出帳)「浜ちどりの記」には「潮干潟の時は、松石とて下道にかかりて磯づたひにゆく」と記す。明治6年に松石新開の南に鴻治新田を拓き、干潟がなくなり仁保島村との間は水路となる。明治22年から自治体船越村となる。明治末期は、鴻治新田でぶどう栽培が盛んになる。大正9年日本製鋼所広島工場が設立され各種兵器や工具機械を生産した。昭和3年に船越町、昭和50年に広島市船越町。昭和57年から広島市安芸区となる。
矢野新町(やのしんまち)
矢野西(やのにし)
矢野町(やのちょう)
矢野東(やのひがし)
矢野南(やのみなみ)
海田湾に注ぐ矢野川の下流域で、中世に野間氏の発喜城下の市町。地名の由来は、「秋長夜話」に「矢野村ハ箭?<竹に幹>(やの)村なり、此山より箭竹を出す、名産なり」と記す。(箭竹は弓の矢を作る竹。)平安期には養隈郷の郷名が記される。養隈郷は安芸国安芸郡十一郷の一つ。(十一郷は、安芸<府中>、船木<荘山田>、養隈<矢野>、安満<江田島>、駅屋、宋山<中野>、漢辨<可部>、彌理<三入>、河内<小河内>、田門<三川>、播良)和名抄より。東急本の訓は「也乃」、高山寺本の訓は「夜乃」。芸藩通志は隈は濃の誤りとして矢野村とする。
鎌倉期には矢野の地名が見え、安芸国安南郡安摩荘のうちとされる。南北朝期には矢野城に熊谷蓮覚が足利方の武田氏と戦い、激戦の末落城する。その後、野間氏が入るが、戦国期に陶晴賢が毛利と対立した際に陶方に付き厳島合戦の前に滅ぼされる。
江戸期から明治22年までは矢野村。明治22年に自治体の矢野村となり、大正6年に矢野町。明治期から髢(かもじ)の生産が盛んとなり、大正11年には全国の7割を生産。また、牡蠣の養殖も盛ん。昭和10年に矢野新開・地先が埋め立てられて海軍軍用地となり、その後自衛隊海田市駐屯地となる。
昭和50年に広島市矢野町となる。昭和55年から広島市安芸区となる。
参考資料「矢野の歴史概要(矢野公民館)」にまとめがあります。
この一覧表は、郵便番号一覧をもとに作成していますのでアイウエオ順と相違してます。