トップ >> 広島市町名一覧表 >>佐伯区(2003/12/7-2004/12/21作成) 

旭園(あさひえん)

昭和46年から現在の町。昭和60年から佐伯区の町名。もとは五日市町五日市の一部。

五日市(いつかいち)

五日市村
地名の由来は、中世の定期市に因む(五日市町志)。広島湾の北西沿岸部に位置し、東を八幡川、西を三筋川が流れる。字地毛の池田城(寺家城)跡は池田敬正の居城と伝わる。また、亀山の光明寺城(五日市城・幸崎城)跡は宍戸元続、海老山は宍戸備前守の居城という。この地の開発者といわれる湯蓋道空と天邪鬼伝説が伝わり、津久根島に道空の墓がある。佐伯区役所に天邪鬼の像もある。海老山には、道空夫妻を祀塩屋神社があり、桜の名所として有名。
五日市は戦国期に見える地名。厳島神主家の跡目争いで合戦の場となり、大内氏が干渉してその後大内氏の支配下となり、陶晴賢、そして毛利氏支配下となる。
五日市村は、明治期からの村名で、安芸国佐伯郡(もと佐西郡)広島藩蔵入地。海老山はもとは島だったが、明暦〜宝栄年間に埋め立てられて地続きとなった(国郡志書出帳)。沿岸部を山陽道が通り、享共2年に尾張の商人菱屋平七が著した「筑紫紀行」に「五日市村、人家百軒計道の北に町を成して、みちの南は塩浜なり」と記す。殿山は、むかし菅公が筑紫へ配流の時着岸した所とする伝説がある。慶応2年の長州戦争では光禅寺に幕府軍の陣が置かれた。明治7年に東町小学校勉栴舎が開校し、その後五日市小学校となる。明治15年に吉見新兵衛が吉見新開を開いた。

五海市村
明治22年に五日市村・海老塩浜村・皆賀村が合併して自治体の五海市村となる。村名は合併した村の名前を折衷して付けられた。役場を五日市に置く。明治44年に町制施行により五日市町となる。

五日市(いつかいち)
明治44年から昭和60年までの自治体名。昭和12年に役場が海老塩浜へ移転。大正13年に広島瓦斯電軌(現広島電鉄)の宮島線が開通し、五日市駅・隅の浜駅を設置し、昭和11年楽々園遊園地が開園し隅の浜駅を廃止して楽々園駅を設置。昭和7年に国道2号線(もと観光道路)が完成、昭和19年に産業道路が開通。昭和20年には造幣局広島支局が開局(桜の名所として有名)。昭和30年に河内・観音・八幡・石内を合併。昭和32年に佐方の一部が廿日市町佐方となる。昭和49年に人口6万人となり全国一人口の多い町となる。昭和60年広島市佐伯区となる。

五日市
はじめ五海市村、明治44年から五日市町、昭和60年から広島市佐伯区の大字となる。明治30年に山陽鉄道(現JR)が開通し、明治32年に五日市駅が開設。一部が、昭和41年に駅前町、昭和44年に新長池、昭和46年に藤垂園・吉見園・旭園・海老山町・海老園1−4丁目・楽々園1−6丁目昭和47年に新宮園、昭和48年に五日市1−7丁目・駅前1−3丁目・中央1−7丁目となる。

五日市駅前

昭和48年からの町名。1−3丁目がある。もとは五日市町駅前町と五日市の一部。

五日市駅前町

昭和41年から昭和48年の町名。もとは五日市町五日市の一部。昭和47年に新宮園、昭和48年に駅前1−3丁目となる。

五日市港(いつかいちこう)

五日市の沖合いを埋め立てた造成地で、広島南道路に通ずる臨海道路廿日市草津線が通り、広島はつかいち大橋で海老山南へ続く。

五日市中央(いつかいちちゅうおう)

昭和48年から現在の町名。1−7丁目がある。もとは五日市町新長池と五日市・海老塩浜・千同の各一部。五日市の中央に位置する。

下河内(しもこうち)

河内(こうち)
古くは川内と書いた。八幡川(河内川)が山間部から五日市平野へ流れでる一帯。地名の由来は八幡川の河内集落にちなむ(国郡志書出帳)。河内は鎌倉期から見える地名。安芸国佐西郡のうち。

河内村(こうちむら)
明治22年から昭和30年までの自治体名。上河内・下河内・上小深川・下小深川の4か村が合併して成立。村名は、中世から当地一帯を河内と呼んでいたことによる(県市町村合併史)。上河内に役場を設置。明治12年に下河内・上小深川小学校を合併した上河内小学校が明治15年に字道添に新築移転し明治24年に河内小学校となる。海外移民が盛んで明治45年当時の海外渡航者は245人にのぼる。昭和30年に五日市町の一部となる。

下河内村(しもごうち)
八幡川の右岸流域。地名は八幡川の下流の河内集落であることに因む(国郡志書出帳)。土井岡は河内筑後の居城跡と伝える。
下河内村は、江戸期から明治22年の村名。安芸国佐伯郡(もと佐西郡)広島藩領。もと河内と称したが、のちに上河内・下河内・上小深川・下小深川の4か村に分かれて成立したという(芸藩通志)。「国郡志書出帳」によると慶長6年の検地で分村したと考えられる。飛郷白河は半紙を漉き、名産の蕨は美味なことから河内蕨と呼ばれ広島城下へ出荷された。神社は氏神山王権現。飛郷大杉は、むかし行基が極楽寺の千手観音を刻んだ大杉のあった地との伝説がある。村内を石州往還が通る。寛政9年岡岷山が著した「都志見往来日記」には「寺田を過下河内へ移る所、川端に茶屋三軒あり、川にちさき梁あり、此所より山に登る」と記し、河内峠の図を載せている。明和8年に洪水の犠牲者を供養するため千蔵地蔵を建てた。天保10年頃から河内神楽が始まり、安政5年頃小五郎なる者が盆踊りを考案した。幕末に遠藤家が私塾を開き、村内の子弟の教育にあたった。明治7年に小学校変応舎が開校、のちに下河内小学校となり明治15年に上河内小学校と合併。明治22年に河内村の大字となる。

五日市町下河内
明治22年から現在の大字。はじめ河内村下河内、昭和30年から五日市町下河内、昭和60年から佐伯区五日市町下河内。

上河内(かみごうち)

上河内村
八幡川右岸中流域。地名の由来は、八幡川の河内集落にあって上流に位置することに因む(国郡志書出帳)。戦国期河内(渡辺)肥前守居城と伝える山根城跡がある。名勝に魚切滝・次郎五郎淵があったが、魚切ダムで景観は失われた。
上河内村は、江戸期から明治22年の村名。安芸国佐伯郡(もと佐西郡)広島藩領。「芸藩通志」に「古は此辺をすべて河内と称せり、後に河内上下、小深川上下、四村に分かる、川の上下にて分つといへり」とあり、河内と称した地が4か村に分村して成立。分村時期は不祥であるが、下河内・上小深川両村の「国郡志書出帳」にそれぞれ慶長6年の検地高が記されていることから慶長6年の検地によって分村したと考えられるが、一説には元和2年の分村とする説(五日市町誌)もある。神社は氏神八幡宮。もと禅宗で慶長年間に改宗した浄土真宗硯月山光乗寺があり、境内には山根城主河内肥後守と伝える古墓がある。地内を石州往還が通る。窓山は2つの峰が対峙しその空間が窓の如く見えることからその名を得たといい、また窓は惑うの意味で樵路の行き惑うことから惑山と称したことによるともいう(芸藩通志)。名勝魚切滝の近くの次郎五郎淵は、むかし次郎五郎という若者が白鹿を追ってこの淵に没したとの伝説がある。幕末に光乗寺の渡辺見利が寺子屋を開き、村内の子弟の教育にあたった。慶応2年の長州戦争では村内に関門が設けられ光乗寺に幕府の陣所が置かれた。明治7年に光乗寺境内に小学校獲誠舎が開校、のちに上河内学校となり明治14年に上小深川・下校学校と合併し上河内小学校となる。明治22年に河内村の大字となる。

五日市町上河内
明治22年から現在の町名。はじめ河内村、昭和30年から五日市町、昭和60年佐伯区となる。河内村の役場が置かれた。明治24年に上河内小学校が河内小学校となる。昭和52年に魚切ダムが完成。
河内南(こうちみなみ)
五日市ニュータウン彩が丘

上小深川(かみこぶかわ)

上小深川村
八幡川左岸の流域。地名の由来は、八幡川上流の小深い谷状の地形にちなむという(国郡志書出帳)佐伯九満なる者が居城したという古城跡やその居所と伝える土塁跡が残り、浜射場の地は古戦場と伝える。
上小深川村は江戸期から明治22年の村名。安芸国佐伯郡(もと佐西郡)広島藩領。当地は、もと下小深川と合わせて小深川と呼び、上河内と下河内を含めて河内と称したものが4か村に分村した(芸藩通志)。神社は、下小深川と共同の氏神熊野新宮。小祠河内神社は当村の庄屋山田家の祖先が昔伊勢山田より勧請したといい、勧請後は村内に難病の患なしといい伝える。仏峠は眺望に勝れ、丸山の西麓には清冽な清水が湧き名水とされた。山田家の祖先はむかし伊勢山田から当地に来往し、代々神主職を勤め庄屋を世襲したと伝え、文明9年の神道書などの古文書を所蔵した。中州の地は洪水で八幡川の流路が変わってできた地と伝えるがその時期は不明。幕末に山田助十郎・田中順三郎が私塾を開く。明治7年に民家を借りて小学校慶業舎が開校、のちに上深川小学校となり明治14年に上河内学校に合併。明治22年に河内村の大字となる。
五日市町上小深川
明治22年から現在の大字。はじめ河内村、昭和30年から五日市町、昭和60年から佐伯区。昭和60年に一部が五日市藤の木となる。

下小深川(しもこぶかわ)

下小深川村
八幡川左岸の流域。地名の由来は、小深い谷状の地形から小深川といい、その下流域にあることによるという(国郡志書出帳)。
下小深川は江戸期から明治22年の村名。安芸国佐伯郡(もと佐西郡)広島藩領。当地は、もと上小深川と一村で小深川と呼び、上河内と下河内を含めて河内と称したものが4か村に分村した(芸藩通志)。神社は上小深川の新宮神社を氏神とする。幕末には藤本家が私塾を開き子弟の教育にあたった。明治7年に下河内村と共同で小学校変応舎を下河内村に開校。明治16年に授産会社広島綿糸紡績会社第二工場が創業し、佐伯郡の近代工業のさきがけとなる。明治22年に河内村の大字となる。
五日市町下小深川
明治22年から現在の大字名。はじめ河内村、昭和30年から五日市町、昭和60年から佐伯区。明治26年に授産会社の広島綿糸紡績会社が株式会社となり、明治35年に海塚紡績所となったが、明治44年に閉鎖した。昭和60年に一部が藤の木となる。
河内南(こうちみなみ)
五日市ニュータウン彩が丘

保井田(ほいだ)

保井田村
古くは保位田・穂井田とも書く。極楽寺山(観音山)の東麓、八幡川西側の地域。薬師堂の薬師如来は、行基が極楽寺の本尊千手観音を造仏した大杉の余木で造ったと伝える。保井田は鎌倉期から見える地名。安芸国佐西郡のうち。当地には城主・年代とも不明の茶臼山城跡がある。地名の保井田はほきの音便ほいの訛りで、矢野の発起(保木)と同様に崖地の意味と思われ、ほき谷がほい谷となり南下してほい田となったものか(いつかいちの地名をさぐる)。
保井田村は江戸期から明治22年の村名。安芸国佐伯郡(もと佐西郡)広島藩領。神社は氏神大歳大明神。庄屋高木四郎佐衛門は大和国出身の旧家で戦国期に毛利氏の家臣として吉田に住み、永禄11年に池田城(寺田)を賜り、毛利氏の移封後次男が在村し、その三代目がこの村に移り住んだと伝える。明治7年小学校執中舎が開校。その後寺田・中須賀・寺地村と連合して三郷小学校となり、明治18年に利松村の石内小学校と合併して六号小学校となり、中地へ移転した。明治22年に八幡村の大字となる。
五日市町保井田
明治22年から現在の大字名。はじめ八幡村、昭和30年に五日市町、昭和60年から佐伯区。昭和46年頃から西の丘陵地が造成され、薬師が丘・折出と呼ばれ、一部が昭和47年に八幡ケ丘、昭和49年に八幡ケ丘2−3丁目、昭和51年に薬師ケ丘、昭和54年に折出となる。

口和田(くちわだ)

口和田村
古くは和田と称したが、郡内山間部に同名の和田村が成立したことから山間部の村を奥和田、当地を口和田と称するようになったという(芸藩通志)。また、往古、満潮時にはこの辺まで潮が入り込み入江となったという(八幡村誌)。武田ケ城(東城家)と呼ぶ土塁跡がある。
口和田村は、江戸期から明治22年の村名。安芸国佐伯郡(もと佐西郡)広島藩領。神社は、貴船神社・大歳神社がある。貴船神社は神武天皇東征の途次の着岸地とする伝承があるが芸藩通志では否定される。明治8年に利松村・高井村と連合して広業館が開校(八幡村誌)。明治13年に当村の一部、上和田が石内村に編入。明治22年に八幡村となる。
五日市町口和田(くちわだ)
明治22年から現在の大字名。はじめ八幡村、昭和30年に五日市町、昭和60年から佐伯区。昭和54年に八幡東小学校が開校。昭和59年に一部が美鈴が丘緑となる。

寺田(てらだ)

八幡川の流域。地名の由来は昔この地に山入寺という大寺があり、この地を領したことによるかと「芸藩通志」にあり。
寺田は鎌倉期から見える地名で安芸国佐西郡。山入寺山の頂に深入城跡がある。
寺田村
江戸期から明治22年の村名。安芸国佐伯郡(もと佐西郡)広島藩領。氏神宝神社があり、廃寺に山入寺があった。塚本の地には中世の山陽道の塚松があったという(国郡志書出帳)。明治5年に保井田村・中須賀村・寺地村と連合して保井田学校を設立、明治10年に三郷学校となった。明治22年に八幡村の大字となる。

五日市町寺田
明治22年から現在の町名。はじめ八幡村、昭和30年から五日市町、昭和60年から佐伯区。八幡村役場が置かれたが、その後中地に移る。大正6年に八幡尋常小学校が中地から当地へ移転。昭和45年頃から団地造成が始まる。昭和47年に一部が八幡ケ丘、昭和49年に八幡ケ丘2−3丁目となる。

五日市町昭和台(しょうわだい)

昭和52年から現在の町名。はじめ五日市町、昭和60年から佐伯区。もとは五日市町皆賀の一部。一部が昭和59年に皆賀1−4丁目、昭和60年に西区井口町となる。

中地(なかじ)

八幡川流域で、地名の由来は、中須賀村と寺地村の村名を折衷したもの。
中地村
明治15年から明治22年の村名。中須賀村と寺地村が合併して成立。明治20年保井田村の六合尋常小学校が当地に移転、のちに八幡尋常小学校となる。明治22年に八幡村の大字になる。

中須賀村(なかすがむら)
江戸期から明治15年の村名。安芸国佐伯郡(もと佐西郡)広島藩領。八幡川(河内川)と石内川の合流点付近。「天保郷帳」では池田中須賀村と見え、延宝3年に中須賀村に改称されたという説がある(五日市町誌)。村名の由来は、もと海湾の中州であったことに因むという(芸藩通志)。田中寺は弘法大師の開基で本尊の阿弥陀如来は極楽寺の千手観音と同じ大杉で刻まれたものと伝え、天文3年に浄土真宗へ改宗、その後一時廃寺となっていたらしい。明治15年中地村の一部となる。

寺地村(てらじむら)
寺地は戦国期に見える地名。八幡川(河内川)と石内川の合流点付近に位置する。寺地村は江戸期から明治15年の村名。明治15年に中地村の一部となる。

五日市町中地
明治22年から現在の大字名。はじめ八幡村、昭和30年から五日市町、昭和60年から佐伯区。昭和28年に八幡公民館開設。昭和40年に一部が美鈴園となる。

五日市町美鈴園

昭和40年から現在の町名。はじめ五日市町、昭和60年から佐伯区。もとは五日市町中地・皆賀の各一部。昭和59年に一部が皆賀1−4丁目となる。

石内(いしうち)

八幡川支流石内川の流域。もとは石道といい、地名の由来は、谷間の道で石の多かったことにちなむという(国郡志書出帳)。石内川流域には条里遺構が見られ、中世には「石道」と称されていた。天正6年3月の白鳥社祭礼事書に「石内八幡宮」が見え、天正年間ころに「石内」と転訛したと思われる。地内には古代・中世の官道添いの山地に数多くの中世古城跡が残されている。戦国期に児玉内蔵大夫の居城と伝える狐ケ城、飯田越中守の居城と伝える京良木山城、大内氏家臣遠藤美作守居城と伝える釈迦ケ岳城、同じく新里式部の居城と伝える西ケ城、源平合戦の時源氏方の佐々木左衛門国正が居城し、天文10年頃大内氏家臣麻生右衛門尉が在城したと伝える水晶ケ城、同じく源平合戦の時平家方の城と伝える今市城・串山城、南北朝期に南朝方の有井三郎左衛門尉が築きのちに山県備前の居城と伝える有井城、武田氏の家臣長尾氏の居城と伝える長尾城の古城跡があり、ほかに高城跡、徳美城跡が知られる。
石内村
江戸期から明治22年の村名。安芸国佐伯郡(もとは佐西郡)広島藩領、家老堀田浅野氏の給地。神社は氏神臼山八幡宮で延暦年間に豊前国宇佐から勧請し、毛利氏から社領の寄進を受けたと伝えるが寺院はなく道場があった。山陽道が海岸線を通る以前は伴から廿日市に通じる官道がこの地を通り、交通の要衝であった。そのため、文政2年頃までは平岩の地に一里塚松があったという(国郡志書出帳)。白井盛太郎は漢文・謡曲・絵画に優れ塾を開いて門弟を指導、安政6年に没した。字湯戸はもと温泉が湧き出ていた地といい、また百石の地名は往古には満潮時に海水がこのあたりまで入り込み、飛び石伝いに川を渡るため数百の石が並べられていたことに因むという(国郡志書出帳)。明治7年に小学校知止館、協成館、寿教館、広業館の4校が開校。明治9年には石飛学校・教場学校・丸山学校・古保里学校となり、その後丸山小学校と教場小学校に統合され、明治18年には、丸山小学校が教場小学校丸山分教場となる。明治10年に厳島から高野山真言宗金剛院が移され、石内御大師と呼ばれる。明治13年に口和田村の一部、上和田を編入。明治22年に自治体石内村となる。大正8年の海外移民は401人を数える。昭和30年に五日市町の大字となる。
五日市町石内
昭和30年から現在の町名。はじめ五日市町石内、昭和60年から佐伯区。昭和45年から丘陵地に大規模な住宅団地だ造成される。昭和48年神原のシダレザクラが県天然記念物に指定。一部が、昭和49−51年にかけて五月が丘1−5丁目に、昭和60年に藤の木となる。
石内上
インター流通パーク
石内南
杜の街アベニール

海老園(かいろうえん)

もと海老塩浜(かいろうしおはま)。海老新開・海老新田ともいう。偕老とも書く。広島湾の北西沿岸部で、三筋川(岡の下川)河口の干潟を干拓してできた新開地。地名の由来は、海老山の下に位置することから(芸藩通志)。
海老塩浜村
江戸期から明治22年の村名で安芸国佐伯郡(もと佐西郡)広島藩領蔵入地。「芸藩通志」に「万治の頃、斥鹵を墾て新田及び塩田とし、一村となす」とある。また、近世以前に湯蓋道空なる者の開発とする伝えもある。庄屋山中氏の先祖は山中鹿之介幸盛の娘を娶って草津村に住し、その後当地に移り住んで数代村役人職を勤めたと伝える。また、当地で製する塩は佐伯郡の特産で「海老塩浜に所製、一歳、凡千百石、苞一斗二升、或いは二斗を入る。苞の形兜頭巾のごとくす、是この浜にかぎれり」と記す。当地の塩は塩分が強いが佐伯郡の奥地へ、また山県・高田・高宮の各郡、さらに石州・防州方面へも積み出された(国郡志佐伯郡辻)。明治6年に大芝新開、明治7年に美濃里新開が拓かれた。

海老塩浜(かいろうしおはま)
明治22年から昭和48年の大字名。はじめ五海市村、明治44年から五日市町。明治43年に塩浜が廃止された。昭和7年に観光道路(国道2号線)が開通。昭和11年に楽々園遊園地開園。昭和12年に町役場が設置。昭和42年に五日市南小学校、同52年に五日市南中学校が開校。昭和44年に新長池、46年に海老園1−4丁目、楽々園1−6丁目、隅の浜1−3丁目、美の里1−2丁目、48年に五日市1−7丁目・中央1−7となる。

海老園(かいろうえん)
昭和46年から現在の町名。1−4丁目。もとは五日市町五日市・海老塩浜の各一部。
海老山(かいろうやま)
標高53.7mで花崗岩の離島であったが、八幡川の堆積、新田の干拓、塩田跡の埋め立てで陸続きとなった。広島湾に臨む要所を占め、宍戸備前守の居城があったといわれる(佐伯郡誌)。西側に五日市漁港があり、昔は海老塩浜の地であった。西麓に塩谷神社が祀られている。昭和初期までは中島海水浴場であった南側は住宅地となった。アカマツの林が広がる尾根筋は海老山公園がつくられ、桜の名所として季節には花見客で賑わう。

海老山町(かいろうやまちょう)
昭和46年から現在の町名。もとは五日市町五日市の一部。海老山を中心とする地域。
海老山南(かいろうやまみなみ)
海老山の南を埋め立てた地域。1−2丁目がある。

観音台(かんのんだい)

観音村(かんのんむら)
明治22年から昭和30年の自治体名。三筋川(岡の下川)の流域。倉重・千同・坪井・三宅・屋代・佐方の6村が合併して成立。旧村名を大字とする。村名の由来は、極楽寺山がその頂上にある極楽寺の本尊十一面観音にちなんで観音山と通称され、その麓にあたるこの地を古くから観音下と呼んだことによる(県市町村合併史)。昭和5年に山陽高等女学校(現山陽女子学園)が佐方に開校。用水に不足したびたび旱害に悩まされたため大正12年坪井に牛池山溜池を設置、昭和18年までに溜池8か所を設けて灌漑にあてた。昭和30年五日市町の一部となる。
観音台(かんのんだい)
昭和45年から現在の町名。はじめ五日市町、昭和60年に佐伯区。ともは五日市町坪井、千同の各一部。

倉重(くらしげ)

古くは蔵重とも書いた。三筋川(岡の下川)の源流域。
倉重は鎌倉期からの地名で安芸国佐西郡のうち。戦国期には天文23年6月5日に毛利・陶両軍がこの地で戦った。
倉重村
江戸期から明治22年の村名。安芸国佐伯郡(もとは佐西郡)広島藩領。当村の庄屋庄作は高木姓を名乗る大和源氏の末流で、戦国期には毛利氏の家臣として吉田に住み、永禄7年から五日市の池田城に居城し、毛利氏の防長転封後は農民となり此地に移り代々庄屋を勤めたという。小字として城跡に関連する城緑、堀越があり、隠れ迫には池田城落城の伝説が残る。弘法杖は弘法大師が杖を突いたら清水が湧き出たいう伝説のある地名。明治8年に字神尾に小学校奨弘館が開校。明治22年に観音村の大字となる。
倉重
明治22年から現在の町名。はじめ観音村、昭和30年から五日市町、昭和60年から佐伯区。昭和3年に暴風雨で大きな被害を受ける。昭和49年に県立五日市高校新設。昭和51年に広島市立植物公園が開園。昭和54年に一部が折出になる。

五月が丘(さつきがおか)

昭和49年から現在の町名。始め五日市町で、昭和60年に佐伯区。もとは五日市町石内の一部。1−5丁目がある。絵図面の釈迦獄城跡付近の山間部付近。大規模な宅地造成により団地となっている。五日市インターを降りて市内へ向かう道路の山面にある。

城山(じょうやま)

古くは池田山ともいった。池のそばの田だが、ここでは中世武士の居城で池田城と同じ。現在宅地開発によって団地化が進む。

新宮苑(しんぐうえん)

昭和47年から現在の町名。はじめ五日市町、昭和60年から佐伯区。もとは五日市町五日市、駅前の各一部。新宮山は新宮社背後の山で現在は宅地化している。絵図面に廟宮の地名が見える。

隅の浜(すみのはま)

昭和46年から現在の町名。1−3丁目がある。昭和60年から佐伯区。もとは五日市町佐方・海老塩浜の各一部。

千同(せんどう)

古くは仙洞・仙塔・千答・仙頭・川頭とも書いた。三筋川(岡の下川)の流域。地内に中州・塩田と呼び小字があり往古はこのあたりまで海水が入り込んだと伝える。保井田と倉重に洞仙があり同じ地からの類推とも思われる。千は千畳敷の如き小平地、仙は修行者の居た所でとうは峠又は塔とも。
千同は鎌倉期からの地名で、安芸国左西郡のうち。国衙領とされ実質上は厳島社領化していたと考えられる。
千同村は、倉重村と坪井村の間に位置する。千同と倉重との境にある月見ケ城跡は五日市池田城の隠し城の跡で、毛利氏家臣高木信行が自刃した所と伝える(五日市町誌)。
千同村
江戸期から明治22年の村名で安芸国佐伯郡(もと佐西郡)広島藩領。明治7年に字原山に小学校善正舎が開校。その後明治10年頃倉重と連合して倉重村に神尾小学校を開校。明治19年に坪井小学校と合併して上側小学校神尾分教場となる。明治22年に観音村の大字になる。

千同
明治22年から現在の町名。はじめ観音村、昭和30年に五日市町、昭和60年に佐伯区。明治24年に上側小学校が観音小学校に改称され当地に昭和2年まで置かれる。昭和45年住宅団地造成により一部が観音台、昭和48年に一部が中央1−7丁目となる。

坪井(つぼい)

坪も井も集落を意味するが坪は古代条里制の遺名か。三筋川(岡の下川)の流域に位置する。坪井は戦国期から見える村名で、安芸国佐西郡のうち。毛利氏家臣の糸賀平左衛門尉の給地に<坪井伊豆守分>が見え、坪井氏が在地領主として存在し、大内氏、毛利氏へ仕えていたという。字土井に伝坪井将監屋敷跡・伝坪井将監力石がある。
坪井村(つぼいむら)
江戸時代から明治22年の村名で安芸国佐伯郡(もと佐西郡)広島藩領。古くから旱魃や水害が多いと伝える。明治8年に字土井に小学校修身舎が開校、のちに坪井小学校・上側小学校となる。明治22年に観音村の大字となる。

坪井(つぼい)
明治22年から現在の町名。はじめ観音村、昭和30年から五日市町、昭和60年に佐伯区。昭和17年まで観音村役場が置かれた。昭和23年に観音中学校新校舎が落成。昭和45年から丘陵地の宅地造成が進んだ。昭和57年に観音西小学校が開校。昭和45年に一部が観音台となる。
坪井町

藤垂園(とうすいえん)

昭和46年から現在の町名。もとは五日市町五日市の一部。

利松(としまつ)

古くは俊松とも。石内川下流域に位置。字郡組付近は古代郡衙の所在地と比定される。「延喜式」の大町駅、「和名抄」の大町郷とする説もある。
利松村
鎌倉期から見える村名。安芸国佐西郡のうち。地内に利松孫右衛門の居城跡と伝える宮尾(滝尾)城跡や城主不明の鉢ケ峰城跡がある。
江戸期から明治22年までの村名。安芸国佐伯郡(もと佐西郡)広島藩領。明治8年に口和田村・高井村と連合して利松村に広業館を開校、明治14年に石原学校となり明治18年に保井田村の三郷学校と合併して六号学校となった。明治22年に八幡村の大字となる。

利松(としまつ)
明治22年から現在の町名。はじめ八幡村、昭和30年から五日市町、昭和60年から広島市佐伯区。昭和23年に三和中学校が新築。

藤の木(ふじのき)

昭和60年から五日市町藤の木。もとは石内の一部。野登呂川と笹利川の間に位置する。1−4丁目がある。イトーピア五日市藤の木団地。

皆賀(みなが)

水長・御永・未永・皆永・三永とも書いた。地名の由来は、水はけが悪く、霖雨洪水に際して鈴が峰から流れ出る水が長く滞留したことから水長と称したが、寛文4年の八幡川瀬替えによって水難を免れ、村内皆がこれを賀したことから皆賀と改めたという(国郡志書出帳)。
皆賀村は江戸期から明治22年の村名で、安芸国佐伯郡(もと佐西郡)広島藩領。八幡川河口部左岸、南は瀬戸内海に面す。明治22年に五海市村の大字となる。
皆賀村(みながむら)
明治22年から現在の町名。はじめ五海市村、明治44年に五日市町、昭和60年から佐伯区。昭和7年に観光道路(国道2号線)が開通、八幡川橋竣工。昭和39年に美鈴園、昭和43年に昭和台の団地開発が始まる。昭和45年皆賀橋完成。昭和50年五日市東小学校開校。一部が、昭和40年に美鈴園、昭和45年に皆賀本町、昭和52年に昭和台、昭和59年に皆賀1−4丁目となる。

皆賀
昭和59年から現在の町名。1−4丁目がある。もとは五日市町皆賀本町と皆賀・昭和台・美鈴園の各一部。

三筋(みすじ)

昭和58年から現在の町名。1−3丁目。もとは五日市町佐方の一部。倉重川と千同川が合流して岡ノ下川となるが、岡の下は三宅村岡山(通称御曹子山)の下のことで、岡山に御曹子社があったので御筋川となったものか。三筋川は三宅川の別称とも。

三宅(みやけ)

三筋川(岡の下川)の流域。地名の由来は、上古この地に屯倉があったことにちなむという(芸藩通志)。「日本書記」の「過戸廬城部屯倉」を当地に比定する説(五日市町誌)や「和名抄」の伊福郷とする説(八幡村誌)がある。地内に古代佐伯郡の豪族佐伯氏の一族で在庁官人の田所氏の屋敷跡と伝える遺跡があった。ほかに源範頼の墓と伝える五輪塔がある。円明寺は弘法大師の開基と伝える古刹で境内に任助法親王の墓と称する宝篋印塔がある。三宅は戦国期から見える地名で、安芸国佐西郡に属す。
三宅村(みやけむら)
江戸期から明治22年の村名で、安芸国佐伯郡(もと佐西郡)のうち広島藩領。南の屋代村との境にある岡山は御曹子山と呼ばれ、蒲明神と蒲冠者源範頼の墓とする五輪塔があり、範頼伝説が伝わる。頼山陽の叔父である頼杏坪が当地を訪ねて歌を詠み(歌日記)天明初年の成立と考えられる香川南浜の「秋長夜話」にも範頼の墓の記事が見える。屋代川上流の地獄谷に貴船神社(竜王社、竜神さんと呼ばれる)があり、近くに三宅の滝と呼ぶ小さな滝があって、旱害時に雨乞いの祈祷が行われた。明治8年に字寺原に小学校円明館が開校。明治10年に坪井村と連合して坪井村に戸長役場が置かれ、円明館も廃校となり坪井小学校となった。明治22年に観音村の大字となる。
三宅(みやけ)
明治22年から現在の町名。はじめ観音村、昭和30年に五日市町、昭和60年から佐伯区の大字となる。昭和36年に鶴学園広島工業短期大学(現広島工業大学)が開校。昭和37年にゴルフ場が開設。昭和49年に西広島バイパスが貫通した。
三宅町

美の里(みのり)

昭和46年から現在の町名。はじめは五日市町、昭和60年から佐伯区。1−2丁目がある。もとは五日市町海老塩浜の一部。「美の里は美濃里と書き、岡の下川以西の旧国道以南。1882年に埋め立てられた美濃里新開による」

高井(たかい)

石内川の流域で、地名の由来は、地形上の高いところに位置することによるという。鬼ケ城跡は大根八郎の居城と伝え、鈴ケ峰、鉢ケ峰も古城跡と伝える。高井は南北朝期から見える地名で、安芸国佐西郡のうち。
高井村(たかいむら)
江戸期から明治22年の村名で、安芸国佐伯郡(もと佐西郡)。鬼ケ城山に八畳岩、鈴ケ峰に屏風岩と呼ぶ奇岩があって名勝とされた。宝永元年頃まで字堂の迫に万松山門善院浄安寺があり、昔推古天皇の時代に佐伯将軍なる者が当地に在城し、死後その菩提を弔うために開基されたと伝わる。明治8年に口和田村・利松村と連合して利松村に広業館を開校、明治14年に石原学校となり明治18年に保井田村の三郷学校と合併して六学校となった。(八幡村誌)明治22年に八幡村となる。明治22年に八幡村大字高井、昭和30年に五日市町大字高井、昭和49年から大規模な宅地造成により一部が美鈴が丘団地となる。
美鈴が丘西(みすずがおかにし)
昭和53年から現在の町名。昭和60年から佐伯区。1−5丁目がある。もとは五日市町高井の一部。
美鈴が丘東
昭和52年から現在の町名。昭和60年から佐伯区。1−5丁目がある。もとは五日市町高井の一部。昭和58年に西区山田新町1−2丁目と境界変更。
美鈴が丘南
昭和53年から現在の町名。昭和60年から佐伯区。1−4丁目がある。もとは五日市町高井の一部。
美鈴が丘緑
昭和59年から現在の町名。昭和60年から佐伯区。1−3丁目がある。もとは五日市町高井・口和田・美鈴が丘西1−5丁目の各一部。

屋代(やしろ)

古くは八代とも書いた。屋代川沿いの小平野に立地。屋代川上流の地獄谷に「竜神の釜」と呼ぶ甌穴が見られ古来住民はこれに近づくことを禁忌し、干魃の時にここで雨乞が行われたという。五日市の地名をさぐるには、「やしろはや(湿地)、しろ(山腹の平坦地)。即地的にいえば山腹の平坦地に湿地が続いている事で、屋代・八代・社等は宛て字である。屋代川は中央で二本分流し湿地帯で合流する。この上流域は峡谷となり地獄谷と呼ばれ、竜神釜と滝壷が三段ある。」と記す。
八代村(やしろむら)
江戸期から明治22年までの村名。安芸国佐伯郡(もとは佐西郡)広島藩領蔵入地と給地入り交じる。芸藩通志では屋代村。神社は氏神工屋八幡宮。廃寺に三宅村円明寺の末寺の満足寺、阿弥陀堂があった。元禄11年の洪水に襲われた記録が残る。字櫂面は昔源範頼の乗船が漂着した所と伝える沼地で中古地中から櫂を掘り出した地名といわれ、また鍛冶屋敷の地は昔厳島神社の鍛冶職高橋惣之進太夫が移り住んだ所とする伝説がある。(国郡志書出帳)明治22年に観音村となる。
五日市町屋代(やしろ)
明治22年から現在の大字名。始め観音村、昭和30年に五日市町、昭和60年に広島市佐伯区となる。
屋代(やしろ)
昭和58年から現在の町名。はじめ五日市町、昭和60年から佐伯区。1−2丁目がある。もとは五日市町屋代の一部。

八幡(やはた)

八幡村(やはたむら)
明治22年から昭和30年の村名で、高井・口和田・利松・中地・寺田・保井田の6か村が合併して成立。村名は、当地を貫流する八幡川の名による(県市町村合併史)。八幡川とその支流石内川の合流地に位置する。大正4年に宝神社・新宮神社など8社を中地の稲生神社に合祀して大正神社とし、昭和3年には中地の八幡神社を合併して八幡神社とした。昭和20年に作家の原民喜が中地での疎開生活が「小さな村」に書かれている。昭和23年に組合立八幡中学校が三和中学校となる。昭和30年に五日市町の一部となる。
八幡川は湯来町白砂を源流とし佐伯区を南東に流れ西区との境を流れ瀬戸内海に至る。もとは河内地区を流れることから河内川と称し、中世は川内と呼び河内神社が祀られている。八幡は古代佐伯郡の中心地域で利松には郡のつく地名が多く残り佐伯郡衙と考えられる。
八幡
八幡が丘
昭和47年(昭和49年)からの町名。もとは五日市町保井田・寺田の各一部。
八幡東

薬師が丘(やくしがおか)

昭和51年から現在の町名。もとは五日市町保井田の一部。正楽寺の薬師堂があったことによるものか(いつかいちの地名をさぐる)。

吉見園(よしみえん)

昭和46年からの町名。もとは五日市町五日市の一部。明治15年に吉見新兵衛が開いた吉見新開によるものか。

楽々園(らくらくえん)

昭和46年からの町名。1−6丁目がある。もとは五日市町五日市・海老塩浜の各一部。昭和60年から広島市佐伯区。昭和11年に楽々園遊園地が開園、昭和30年頃賑わったが、その後海水浴場が閉鎖され、昭和47年に遊園地も閉鎖された。ファミリータウン広電楽々園がある。


【湯来町】 昭和31年に砂谷・水内・上水内の3か村が合併して成立。平成17年4月25日に広島市と合併し、広島市佐伯区となる。

下(しも)

水内川の最下流域で太田川との合流点付近の山間部。地名の由来は、水内川のもっとも川下にあることによる(芸藩通志)。 麦谷との境界にある平家城(柏原城)は平家落人の居城と伝える。大塚の地に内藤出雲、川井の地に内藤左馬助の墓という古墓があり、 柏原の内藤越後の墓とともに「内藤氏三墓」と称される。 下村は、江戸期から明治22年の村名で、安芸国佐伯郡(もと佐西郡)のうち。広島藩領蔵入地。寛永15年に水内村が下・和田・麦谷 ・菅沢の4か村に分村して成立した。天保年間に川井八幡宮の神官佐々木多四郎が石見神楽を伝習し、水内神楽を創始した。 明治7年に小学校博聞舎(博文社)が開校、明治9年に下村学校、明治14年に下村小学校、明治19年に大塚小学校、明治21年に 下村上簡易小学校か改称。明治14年に津伏小学校が開校し、明治19年に下村下小学校と改称した。 下は、明治22年から現在の大字名となる。まじめは水内村、昭和31年から湯来町、平成17年からは佐伯区湯来町大字下となる。 明治24年に下村下小学校が津伏尋常小学校へ、明治27年に下村上簡易小学校が大塚小学校と改称し、明治39年に 両校が合併して大塚津伏尋常小学校となったが、明治40年に水内下尋常小学校と改称し、昭和43年に麦谷の湯来東小学校に 統合されて廃校となる。

白砂(しらさご)

古くは白沙・白迫とも書き、白坂ともいった。八幡川源流域で、真言宗極楽寺(現在は廿日市に所在)は天平年間に行基の開基と伝える古刹。 白砂は戦国期に見える地名で、安芸国佐西郡のうち。天文10年7月5日の大内義隆下文によると「土毛田郷白砂」の神米を外宮朔幣料としている( 御判物帖)。また、天文23年6月11日熊谷信直宛毛利元就・隆元連署書状によると、白砂で合戦があったことがわかる(熊谷文書)。 白砂村は、江戸期から明治22年の村名で、安芸国佐伯郡(もと佐西郡)。広島藩領。「国郡志書出帳」によれば、もとは葛原と一村で 分村の時期は不明とあるが、慶長6年の検地で白砂が見えるのでこの時期と考えられる。 武一騒動ではこの村からも多くの農民が参加した。 明治22年に砂谷村の大字となる。昭和31年からは湯来町の大字。昭和16年に酪農が始められ、砂谷牛乳の基礎が築かれた。 昭和43年に砂谷小学校が白砂小学校分校・伏谷分校・峠分校を統合して湯来南小学校となる。昭和56年に一部が杉並台となる。

菅澤(すがさわ)

「芸藩通志」には「すげさは」とあり、地名は当地の開発者と伝える菅蔵の名に由来し、のちその名を誤伝したという(上水内村現勢調査簿)。 水内川上流域の山間部で石が谷峡は県の名勝地で、名号岩などの奇岩と比丘の瀬滝・竜頭の滝などがある。名号岩には「南無阿弥陀仏」 の字が彫られており、弘法大師の作と伝える。 菅沢村は、江戸期から明治22年の村名で安芸国佐伯郡(もと佐西郡)のうち。広島藩領蔵入地。寛永15年に水内村が下・和田・麦谷 ・菅沢の4か村に分村して成立した。農業の他に紙漉と山稼ぎがあった。神社は氏神八幡宮。寛政9年にこの地を訪ねた岡岷山は都志見往来 日記に当地の様子を記し、石ケ原・名号岩・比丘の瀬周辺の景観図を載せている。明治8年に小学校養浩舎が開校。明治22年に上水内村の 大字となる。 明治22年から現在の大字。昭和31年からは湯来町の大字。明治37年から上水内から水内村間の里道を改修し、大正12年に県道所山 廿日市線となる。大正2年に菅沢尋常小学校が多田の上水内尋常小学校に併合されてその分教場となり、昭和35年に廃校。昭和12年に 石が谷峡が県名勝となる。

杉並台(すぎなみだい)

昭和56年からの町名で、もとは湯来町白砂・葛原の一部。団地造成により大規模な団地となる。平成17年から広島市佐伯区杉並台となる。

多田(ただ)

水内川最上流域の山間部で、地名の由来は和銅年間に村内の至る所で水田を開墾したことに由来すると伝える(上水内村現勢調査簿)。 湯来温泉は、大同年間傷ついた白鷺がこの地に遊ぶのを見て発見されたとの伝承がある。 多田村は江戸期から明治22年の村名。安芸国佐伯郡(もと佐西郡)。広島藩領蔵入地。慶長6年の検地帳は中多田分と下多田分が残っているが そのうち中多田分に「ふろの本」の地名とともに風呂屋敷3筆が見え、すでにこのころから風呂屋敷があったことが知られる。 寛政9年にこの地に来た岡岷山は、都志見往来日記に「八月廿五日 多田村の湯来に至る。橋を渡りて温泉に至る。民家二、三十軒も有へし・・ 往古より此地湯の湧故を以って地名も湯木と唱るといへり」と記し、温泉と天狗岩・船岩周辺の景観図を載せている。武一騒動には当村 からも多数参加した。明治8年に日入谷の善福寺内に小学校旭昇舎が開校、明治14年に来栖根に移転して下多田小学校と改称、 明治20年に下多田簡易小学校となった。また、明治8年に上多田に開設された旭昇舎分教場、明治14年に開設された下多田小学校 打尾谷分教場賀明治20年にそれぞれ上多田尋常小学校・打尾谷尋常小学校となった。明治39年に下多田尋常小学校が上水内尋常 高等小学校となり、上多田尋常小学校と打尾谷尋常小学校はその分教場となったが、昭和41年には学校の統廃合によって上水内小学校 が湯来西小学校と改称され、分校は廃止された。明治42年に湯来温泉が開発され、その後一時衰退したが、昭和24年に再開発され 昭和30年こく似ん保養温泉地に指定された。昭和22年に上水内中学校が開校、昭和41年には和田に新設された 湯来中学校に統合された。昭和41年に湯来ロッジが完成。平成17年に広島市佐伯区湯来町大字多田となる。

伏谷(ふしだに)

伏谷川流域の山間部で、地名の由来は、昔当地の氏神社に木の中がうつろになった伏木があり、この木のうちに、ある夜厳島明神が降臨 したことから伏谷と称したという(国郡志書出帳)。 伏谷村は明治15年から明治22年の村名で、佐伯郡のうち。上伏谷村と下伏谷村が合併して成立。明治22年に砂谷村の大字となる。 伏谷は明治22年からの大字名で、昭和31年からは湯来町の大字。昭和23年に砂谷中学校が白砂から移転した。昭和38年に県立 廿日市高校砂谷分校が開校、昭和60年県立湯来南高校となった。昭和43年に砂谷小学校伏谷分校が白砂の湯来南小学校に統合され 廃校となる。平成17年に広島市佐伯区湯来町大字伏谷となる。

麦谷(むぎたに)

「芸藩通志」では向谷と書き、「むきたに」と称したとされる。水内川下流域の山間部で、地名の由来は、大谷にて村の中央に向かうことから 向谷と称し、のちに転じて麦谷と称すという(芸藩通志)。地内の柏原古城跡は平家城跡とも呼ばれ、平家落人の居城跡と伝える。 「芸藩通志」では市川周防兄弟の居城といい、その近くに市川周防守・児玉式部・内藤越後の墓と伝える古墓がある(佐伯郡誌)。 麦谷村は、江戸期から明治22年の村名。安芸国佐伯郡のうち(もと佐西郡)。広島藩領蔵入地。寛永15年に水内村が下・和田・麦谷 ・菅沢の4か村に分村して成立した。安計須谷山からは良質の石英を産し、名勝に竜頭瀑と布瀑があった。 明治7年に小学校開明舎が開校、明治9年に麦谷小学校となり、明治17年に皆草学校が開校。明治22年に水内村の大字となる。 昭和31年からは湯来町の大字。明治25年麦谷小学校が堂原尋常小学校と改称、明治29年に皆草尋常小学校と合併して 水内尋常小学校となり昭和44年に水内上小学校・水内下小学校を統合して湯来東小学校となる。昭和22年に水内中学校が開校し、 昭和37年に湯来中学校へ統合された。

和田(わだ)

佐伯区沿岸部の和田を口和田と称し、これに対して奥和田とも呼ばれた。水内川の中流域の山間部で湯の山温泉は、平安期に矢傷を 負った狐がこの鉱泉で傷を治して逃げ去ったことから発見されたと伝え、また湯ノ山明神は大同2年に佐々木右近守の創建と伝える。 和田村は江戸期から明治22年の村名で、安芸国佐伯郡(もと佐西郡)。広島藩領。もとは水内村に属したが寛永15年に分村。 安計須谷山・恵計谷山は御建山、名勝に多羅多羅瀑と夫婦岩・船岩の奇岩があり、霊泉は俗に水内の湯と呼ばれ病に効あり として湯治客が遠近から来て、その近傍に市聚を成した。湯治場としては宝永4年に宿屋1軒が建てられたのが始めとされる。 寛延元年に大量に湯が湧き出たため施設が整備され、宿屋も37軒建てられた。この湯には藩主や頼春水・頼聿庵など多くの 文人等が来遊した。渡辺正任が水内紀行を、堀正脩が霊泉記を著した。寛政9年に岡岷山は、都志見往来日記に当地の様子を記し その景観図を載せている。明治8年に小学校学生舎が開校。明治22年に水内村の大字となる。 昭和31年から湯来町の大字。昭和33年に湯ノ山旧湯治場が県史跡、昭和49年に湯ノ山明神旧湯治場が県重要民族文化財 の指定を受けた。昭和47年に湯の山温泉が国民保養温泉の指定を受けた。

この一覧表は、郵便番号一覧をもとに作成していますのでアイウエオ順と相違してます。