万代橋(よろずよばし) 広島市中区  TOPへ



明治11年木橋ができる。
大正15年2月に「請負人大岩組」架換と旧橋の西側に残された親柱裏に刻まれる。昔,「県庁橋」と呼ばれ、大手町側からの昔の県庁(水主町)への渡り橋として親しまれる。


(2002/4/13)

(2002/4/13)
万代橋(爆心地から約880メートル)
原爆の強烈な熱線をさえぎった欄干は、その形を影として残しました。アスファルトの上には、欄干の柱と一番下の鉄棒の形がはっきりと映っていました。影の位置と形から爆発の方向を知ることができました。この橋の上には、その時、歩いていた人の影や、リヤカーの影も残っていました。
欄干の影が焼け残った万代橋:米軍撮影の碑


万代橋(橋長95.5メートル 幅員5.5メートル 構造 鋼板桁)は、大正5年ドイツ人技師の設計により 大手町と加古町(旧町名 水主町)を結ぶ重要な生活道路として、また 地域における交通の要として架橋された。当時 県庁が加古町に所在していたことから 通称「県庁橋」とも呼ばれ 広く市民に親しまれていたが 昭和20年8月6日 原子爆弾の熱戦は、橋上に人間の影を焼きつけるなど被爆の痕跡を残し その後の歳月を 被爆の証人としてたえてきた。老朽化による架替えにあたり 歴史の証として 旧橋の親柱をここに保存する。 昭和56年12月28日 広島市


広島市役所からの眺望(2002/3/25)
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